<社説>学徒出陣から80年 戦場に再び送らぬため…東京新聞
<社説>学徒出陣から80年 戦場に再び送らぬため(東京新聞 2023年10月21日 08時19分)
太平洋戦争中の1943(昭和18)年10月21日、今は新しい国立競技場となった明治神宮外苑競技場で、学生を戦場に送り出す「出陣学徒壮行会」が文部省と学校報国団の主催で行われました=写真は壮行会を報じる当日の中部日本新聞(現中日新聞)夕刊。
秋雨の中、関東一円の77校から参加した約2万5千人の文科系大学生らが隊列行進し、スタンドを埋め尽くした後輩、女子学生ら5万人が見守りました。
出陣する学生らに訓示したのは当時の東条英機首相でした。
「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚(こうよう)し、仇(あだ)なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日(こんにち)来たのであります」「私は衷心より諸君のこの門出を御祝い申し上げる次第であります」
もとより生還を期せず
これに対し、学徒を代表して答辞を述べたのは東京帝国大(現・東京大)文学部2年生だった江橋慎四郎さん。自分で書いた素っ気ない文章は先生に添削され、激烈な内容に変わったといいます。
「生(せい)ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑽(けんさん)を挙げて悉(ことごと)くこの光栄ある重任に捧(ささ)げ、挺身以(ていしんもっ)て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず」
江橋さんは壮行会後、陸軍に入りますが、最前線に出ることはなく、疎開先の滋賀県八日市で終戦を迎えます。戦後は東大に戻り教育者の道を歩みます。鹿児島県の鹿屋体育大初代学長も務め、2018年に97歳で亡くなりました。90歳を過ぎるまで壮行会について語ることはなかったそうです。
我(われ)らは生きて帰ろうとは思わない。悲壮な覚悟に満ちた壮行会はラジオで全国に生中継され、ニュース映画が上映されました。名古屋や大阪など全国各地で壮行会が行われた学徒出陣は、国民の戦意高揚に利用されたのです。
1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦当時、20歳以上の男性には兵役義務がありましたが、大学など高等教育機関に在籍する学生は卒業まで徴兵が猶予されていました。学問は国家建設の礎との考えからで、戦時下でも当初は学生は徴兵されませんでした。
当時、高等教育機関への就学率は5%程度。学生数は決して多くありませんでしたが、戦況の悪化に伴って兵士不足が深刻化し、それを補うために、学生も徴兵すべしとの声が高まります。
そして43年10月2日、東条内閣は文科系学生の徴兵猶予を停止。壮行会後の同年12月には召集された学生がペンを銃や剣に持ち替えて、戦場に赴いたのです。
出陣学徒は10万人に上るとされますが、何人が召集され亡くなったのか正確な数は分からず全体像は不明です。記録は空襲で焼けたり意図的に焼却されたと指摘されています。
一部の大学では、研究者や有志が中心となり記録が掘り起こされてきました。
例えば、東京帝大では2884人が入隊し、279人が戦没したとされます。早稲田大では直前の募集に応じた学生を合わせて5700人以上、慶応大は同じく3千人以上が入営したとされます。
法政大は約870人の出陣と35人の戦没、明治大は4603人の出征と324人の戦没を確認しています。立教大では在学中の出征者は1247人で全入学者の52%を占めることが分かりました。
憲法9条の死文化進む
学徒出陣50年に当たる93年、全国272校の私立大学の学長・総長は、かつて大学が出陣学徒を歓呼の声で送り出したことについて「有為の若人たちを過酷な運命にゆだねるほかなかったことに、深い胸の痛みを覚える」と反省する共同声明を発表しました。
しかし、こうした大学の思いとは裏腹に、学問を取り巻く状況は年々厳しくなっています。戦後厳しく制限されてきた大学での軍事研究を政府が奨励し、政府に批判的な学者が日本学術会議から排除される事態も起きています。
戦争放棄と戦力不保持を誓った憲法9条の死文化が進み、集団的自衛権の行使容認で他国同士の戦争への参加も可能になりました。敵基地攻撃能力の保有も認められ長距離巡航ミサイルの整備も進みます。防衛費も大幅に増額されます。再び軍事大国にならないとの誓いはどこに行ったのか。
学窓から戦場に送り出す愚を再び犯してはならない。その決意は教育者だけでなく、広く社会で共有し、語り継がねばなりません。
元学徒兵 出征の記憶 80年経て まざまざと
元学徒兵 出征の記憶 80年経て まざまざと(東京新聞 2023年10月22日 06時43分)
大学生を戦場に送り出す「学徒出陣」の壮行会が明治神宮外苑競技場で開かれてから80年。出征の記憶をたどった元学徒兵2人の体験談を詳報する。
保倉進さん(100) 大戦は日本外交の失敗 本心言える時代ではなかった
保倉(やすくら)進さん(100)=世田谷区=は、文京区で5人きょうだいの末っ子として生まれた。正則商業学校(現在の正則学園高、千代田区)で英語を学び、早稲田大学専門部法科在学中に出征した。
陸軍船舶隊へ入隊してフィリピン・セブ島に渡り、船舶兵の基礎訓練を受けた後、幹部候補生の試験に合格。香川県で将校教育を受けるため帰国する。その際、同窓生の一人が病気で試験を受けられず、現地に残った。1944年10月、米軍がフィリピンへの反攻を開始し、残留組の多くが戦死したという。戦後その同窓生と偶然再会し、無事を喜び合った思い出がある。
内地では山口県・仙崎(長門市)の輸送基地に配属された。エンジンと帆の双方を動力とする小型船「機帆船」に隊長として乗り、植民地だった朝鮮からコメなどを運ぶ任務についた。
45年7月中旬、朝鮮・釜山からの帰路に米軍戦闘機の夜襲を受ける。「死ぬかもしれない」と覚悟を決めた。武装は単発式の旧型小銃「38式歩兵銃」が数丁のみ。必死に撃つが、戦闘機にかなうはずはない。
猛攻をしのぎ安堵(あんど)したのもつかの間、隊長室が血まみれになっていた。民間徴用の若い乗組員が、腹に弾丸の直撃を受けた。帰港を急ぐが、スクリューが破損して速度が出ない。「助かってほしい」という願いはかなわず、帰港前に事切れた。死が身近なことを痛感した。保倉さんもこの時、左耳の鼓膜を負傷し、それ以来聞こえが悪いままだ。
出征時に母から贈られたわら半紙を大切に保管している。赤い染料で日の丸が描かれ、「何事も命(めい)にそむくな菊の花」「やすやすと暮らして進むこの時局二人の子等を捧(ささ)ぐうれしさ」としたためられている。
だが、これは母の本心ではないと保倉さんは考える。「息子を戦地へ送り出すのを喜ぶ母親はないでしょう。本当は悲しいとかさみしい気持ちだったはず。だけど、それを言える時代ではありませんでした」
戦後は英語を生かして外資系企業の社員教育に携わった後、教育コンサルタントとして独立した。先の大戦をこう振り返る。「日本外交の失敗です。米国を侮り、己自身のことも知らなかった」
岩井忠熊さん(101) なぜ突き進んだのか 自分も支える側にいた
岩井忠熊(ただくま)さん(101)=大津市=は熊本市に生まれ、幼少期を満州(現・中国東北部)の大連で過ごした。京都帝国大学(現・京都大学)文学部在学中に召集され、1943年12月に海軍へ入る。
44年10月、上官が「戦局を打開するための決死的攻撃兵器が発明された」と志願を募った。岩井さんに志願しない選択肢はなかった。「ぼくは10人きょうだいの末っ子で、父が軍人だから継ぐべき家業もない。特攻にうってつけだった」。昨年9月、102歳で亡くなった兄・忠正さんも慶応義塾大から召集され、海軍の特攻兵器「伏龍」と「回天」を体験している。
こうして、岩井さんは爆薬を搭載したモーターボートで敵艦へ突っ込む特攻兵器「震洋」の部隊に入る。ベニヤ板の粗末なつくりで、最初に目にしたときは「これで死ぬのかというよりは、面白いものを作るなあと」。戦局が絶望的なことは末端兵士にも常識だったが、半ばあきれた。
沖縄戦開始間近の45年3月23日。米軍上陸阻止の任務を帯びて沖縄・石垣島へ向かっていた輸送船が、九州南西沖で米潜水艦の雷撃を受けて轟沈(ごうちん)する。水温15度の冷たい海に投げ出され、味方の艦船に救助されるまで3時間漂流した。
大連の海で鍛えた水泳が得意だった上に「いつやられるかわからない」とシャツを重ね着して乗船したのが幸いして体温低下を抑えられたが、所属部隊の187人中、生還者は45人しかいなかった。
雷撃時の艦橋勤務者は全員死亡だった。岩井さんは艦橋での勤務時間が急きょ1時間繰り下がり、魚雷の命中箇所から最も離れた場所にいた。「生き残ったのは運が良かっただけ」。その後に出撃機会は訪れず、終戦を迎えた。
復員後、「なぜ日本は戦争へ突き進んだのか」という疑問から、歴史学者の道を歩んだ。日本近現代史研究の第一人者として、立命館大学文学部長や副学長などを歴任した。「客観的に見れば、絶望的な状況で戦争へ突っ込んだのがかつての日本で、自分もそれを支える側にいました」
世界中で戦乱が絶えないことに、心を痛める。「過去を顧みることが、同じ過ちを繰り返さないために必要。今の若い人に私のような経験をしてほしくないし、命の大切さ、平和の尊さを強く自覚してほしい」
文・小松田健一/写真・池田まみ、小松田健一