石原慎太郎氏、死去 議員辞職演説(全文、1995年)、国政復帰後初の国会質疑(冒頭、2013年)

石原慎太郎氏死去 政治・経済

議員在職25年表彰での演説全文「議員辞職を表明」(1995年4月14日)

昭和四十一年の暮れから翌年にかけて、私は、ある新聞社の特派員として、当時既にデルタ地域にまで共産勢力が進出していたベトナム戦争の取材に赴きました。

あのベトナムで私が強く感じたことは、首都サイゴンの知識階級のみずからの国で行われている戦争への驚くほどの無関心、冷笑的な態度でありました。それゆえに、私は、あの国がやがて間違いなく共産化されることを確信していました。同時に、私には、あの教養高いベトナムのインテリと日本の知識人たちがその政治姿勢において互いに非常に似ているという気がしてなりませんでした。ということは、祖国日本もまた、いつかの将来、あるいは自由主義体制が侵食され崩壊する日が来るのではないかと。ならば、それを防ぐためにはみずから行動すべきではないかと。私が政界に身を投じる決心をしたのは、あの他国の戦争で感じたもののゆえにでありました。

そして、その翌年、昭和四十三年の参議院全国区に立候補、当選し、後に衆議院に転じて、以来今日に及びます。私の政治家への転身の動機は、その後の日本の発展と安定を眺めれば、幸いにも杞憂に終わりました。すべて国民の英知ある選択と、やむことのない努力のおかげであります。

その間、私も私なりに、志を同じくした仲間とともに政治の金権性と戦い、あるいはアメリカや中国の対日関係における一方的な主張に反発し、微力ながらの戦いもしてまいりました。

最も欣快とするのは、日本側の国益を何ら反映することのなかったあの日中航空協定に最後まで反対した我々青嵐会を当時の周恩来首相が評して、彼らの言うことが当たり前だ、私が日本の政治家だったら彼らと同じことを言っただろうと周辺に語ったということを、後に複数の方々から聞かされたことでありました。

しかしなお、今日この表彰を受けて改めて私は、みずからの力の足りなさに慙愧せざるを得ません。政治家の経歴は決して、決して長きをもってよしとするものではないということを改めて痛感自覚し、ただ恥じ入るのみであります。

イデオロギーの生んだ冷戦構造が崩壊した今、政治の対立軸が喪失されて、私たちは新しい軽薄な混乱の中にあります。新しい文明秩序の造形のために、多くの可能性に満ちているはずのこの日本の将来を毀損しかねないような問題が幾つも露呈してきているのに、現今の政治はそれにほとんど手をつけられぬままに、すべての政党、ほとんどの政治家は、今はただいかにみずからの身を保つかという最も利己的で卑しい保身の目的のためにしか働いていません。

こうした政治の現況に、国民がもはや軽蔑を通り越して、期待し裏切られることにも倦んで、ただ無関心に過ぎているという状況は、政治の本質的危機としか言いようがありません。

植民地支配によって成り立っていたヨーロッパ近代主義の繁栄が終焉し、到来しつつある新しい歴史のうねりの中で、新しい世界の文明秩序が期待されている今、歴史的必然としてアジアに回帰し、他のだれにも増して新しい歴史創造の作業への参加資格のあるはずのこの日本は、いまだに国家としての明確な意思表示さえできぬ、男の姿をしながら実は男子としての能力を欠いた。さながら、さながら去勢された宦官のような国家になり果てています。それを官僚による政治支配のせいというなら、その責任は、それを放置している我々すべての政治家にこそあるのではありませんか。

現在の日本国民の政治に対する軽侮と不信は、今日このような表彰を受けたとはいえ、実はいたずらに馬齢を重ねてきただけでしかない、まさにこの私自身の罪科であるということを改めて恥じ入り慙愧するのみであります。

それでもなお、かくも長きにわたってこのような私に期待し支持を賜った国民の皆様に、この場をおかりして改めて心より御礼を申し上げ、あわせて深い深い慙愧の念をあらわす次第であります。

そして、そのゆえをもって、私は、今日この限りにおいて国会議員を辞職させていただきます。

ありがとうございました。

国政復帰後、初の国会質疑「国民への遺言」(2013年2月12日)

浦島太郎のように十八年ぶりに国会に戻ってまいりました、暴走老人の石原であります。

私、この名称を非常に気に入っていまして、みずから愛称にしているんですけれども、せっかくの名づけ親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると老婆の休日だそうでありますが、これはまたうまいなと思って、大変残念でありますけれども。

これからいたします質問は、質問でもありますし、言ってみれば、この年になった私の、国民の皆さんへの遺言のつもりでもあります。

私がこの年になってこの挙に出た一番強いゆえんは、実は、昨年の十月ごろですか、靖国神社でお聞きした、九十を超されたある戦争未亡人のつくった歌なんです。

この方は二十前後で結婚されて、子供さんももうけられた。しかし、御主人がすぐ戦死をされ、そのお子さんも恐らくお父さんの顔を見ていないんでしょうがね。その後、連れ合いの両親の面倒を見て、子供も結婚し、恐らく孫もでき、ひ孫もできたかもしれませんが、その方が九十を超して、今の日本を眺めて、こういう歌をつくられた。

 かくまでも醜き国になりたれば捧げし人のただに惜しまる

これは、私、本当に強い共感を持ってこの歌を聞いたんですが、国民の多くは、残念ながら我欲に走っている。 ・・・(省略)

作家の石原慎太郎氏が死去 元東京都知事、元運輸相

作家の石原慎太郎氏が死去 元東京都知事、元運輸相(産経新聞 2022/2/1 13:59)

作家、元東京都知事で元衆院議員の石原慎太郎氏が1日、死去した。89歳だった。神戸市出身。

昭和7年生まれ。一橋大在学中に発表した小説「太陽の季節」で31年に当時史上最年少の芥川賞を受賞。若者に影響を与え「太陽族」「慎太郎刈り」が流行した。同小説は後に映画化され、弟の石原裕次郎氏がデビューした。

43年、参院選全国区に自民党公認で出馬し、史上最多の約300万票を獲得しトップ当選した。1期目途中の47年に衆院に転身し、環境庁長官や運輸相などを歴任した。

48年に中川一郎氏らと「青嵐会」を結成し、58年には中川氏自殺を受けて派閥を率いた。平成元年、海部俊樹氏に対抗して党総裁選に出馬した。衆院8期目の7年、国会議員在職25年表彰を受けた衆院本会議で「全ての政党、ほとんどの政治家は最も利己的で卑しい保身の目的のためにしか働いていない」と永田町を厳しく批判し、議員辞職した。

昭和50年に東京都知事選に初めて出馬するが、現職に敗退。平成11年に都知事選に再挑戦し、初当選した。知事時代は築地市場の江東区豊洲への移転や、都が出資した「新銀行東京」開業、東京マラソン開催などを実現させた。米軍横田基地の一部空域返還や羽田空港の国際化など都政の枠を超えた施策も進めた。

都知事として4期目半ばの24年10月、自主憲法制定を実現するため「命あるうちに最後のご奉公をしたい」として知事を辞職し、国政再挑戦を表明。新党「太陽の党」を結成した後、日本維新の会代表に就任し、同年12月の衆院選で国政復帰した。

しかし、在職中に脳梗塞を患い、次世代の党最高顧問として臨んだ26年12月の衆院選で比例代表東京ブロックの最下位に名簿登載され落選。「晴れ晴れとした気持ちで政界を去れる」と引退を表明した。

「石原節」といわれる歯に衣着せぬ発言は物議を醸すこともあったが、その行動力から国政を動かすことも少なくなかった。知事時代は、首都圏ディーゼル車の排ガス規制をめぐって国の対応を「怠慢」と批判し、15年に国に先駆けて規制を開始。24年4月には尖閣諸島(沖縄県石垣市)の購入を表明し、国有化のきっかけをつくった。

政治活動の傍ら、作家や評論の活動も続け「狂った果実」や「化石の森」、共著の「『NO』と言える日本」などを出版。議員時代は田中角栄元首相を金権政治と批判したにもかかわらず、引退後に田中元首相を評価した「天才」も大きな話題を集めた。