国歌「ウクライナは滅びず」の動画 「ありがとう、日本人」と反響
国歌「ウクライナは滅びず」の動画 「ありがとう、日本人」と反響(毎日新聞 2022/2/24 17:04 最終更新 2/24 20:01)
横浜を拠点に活動する女性3人のボーカルグループ「横濱シスターズ」が、ウクライナの国歌を歌った動画が、ウクライナ国民の間で反響を呼んでいる。横浜市とウクライナ・オデッサ市は姉妹都市の関係にあり、政情不安の高まりを受けて投稿した。24日にロシア軍のウクライナ侵攻が始まっており、リーダーの渡辺真帆(MAHO)さんは「非常に悲しくて涙が出た。動画を拡散しながら平和のお手伝いをしたい」と話している。
横濱シスターズは国歌を歌うことで世界平和に貢献することを目標として活動。過去にはフィリピン・マニラ市、インド・ムンバイ市、カナダ・バンクーバー市など横浜市と姉妹都市関係にある国の国歌を歌った動画をアップしてきた。
横浜市とオデッサ市は1965年に姉妹都市提携を結んだ。2020年に55年を迎えたことから、横濱シスターズはウクライナ国歌「ウクライナは滅びず」の練習を開始。これまでウクライナ語の発音などをチェックしてもらう人が見つからずに投稿をためらってきたが、情勢不安を受けて15日に動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿した。
1分14秒の動画にはMAHOさん、MIWAさん、ウクライナ国旗を持ったAIさんが出演。透き通った美声を響かせている。投稿後、ウクライナの国内メディアや駐日ウクライナ大使館などに公式SNS(ネット交流サービス)で取り上げられて動画が拡散。24日時点で7万回再生を超えた。
コメント欄には「ありがとう、日本人。あなたはウクライナの本当の友達です」などとウクライナ語を中心につづられた1000件近い感謝の言葉が並んでいる。オデッサ市は公式ウェブサイト上でこの動画を紹介し、「オデッサ市とオデッサの住民は、横濱シスターズと姉妹都市・横浜の支援に感謝の意を表します」とコメントした。
MAHOさんは「ただただパートナー都市を応援したいという気持ちで政治的なメッセージを発する目的ではなかったが、厳しい情勢の中でウクライナの方々の心にダイレクトに届いた結果となった。改めて国歌を歌うことはその国をリスペクトする手段なのだと思った」と話す。
24日のロシア軍の侵攻については「オデッサに住む方々がどういう思いでいるのかと考えると、胸がつぶれる思い。力を合わせれば良い方向に向かう可能性もあるので、平和へのお手伝いをしたい」と語った。3月6日に開催するユーチューブ配信ライブでもウクライナ民謡を歌う予定だという。
国歌「ウクライナの国歌」
タイトル
Державний Гімн України (デルジャヴヌィ・ヒムン・ウクライーヌィ)/ウクライナの国歌
地方政府のHPでは「ウクライナは未だ滅びず」の名で紹介しているところもある。しかし法律上、この名では明記されていない。
作詞
Павло́ Плато́нович Чуби́нський /パヴロ・プラトノヴィチ・チュビンシクィ)
1839年1月15日、ウクライナ・ボルィースピリ出身。詩人であり、ウクライナ民族学の創始者の一人。サンクトペテルブルク大学で、法学位を取得した。1862年秋に現在の国歌の元となる詩を作成するも、これがきっかけで辺境の地アルハンゲリスクへ追放されてしまう。そこで調査官、統計委員会の書記、地方新聞の編集者、知事への特別任務の職員として働いた。1869年、ウクライナに戻る許可を受け、南西部地域のロシア地理学会の民族誌的および統計的遠征を指揮。
1880年以降、重い病を患い寝たきりになり、1884年1月14日45歳の誕生日の1日前に逝去。遺体は生まれたボルィースピリにあるクニショフ墓地に埋葬されている。
作曲
Михайл Вербицький /(ミハイル・ベルビツィクィ)
1815年生まれ。神父、作曲家。
採用年
1992年1月15日(メロディ)/2003年3月6日(メロディ・歌詞)
当初、憲法によりメロディは定められていたものの歌詞は定まっていなかった。2003年3月6日に施行された法律によりメロディ・歌詞ともに確定。
成り立ち
ロシア帝国領だった1862年秋、Павло́ Плато́нович Чуби́нськийが「ウクライナは未だ滅びず」という詩を発表し、ウクライナコミュニティの間で人気を博す。しかし、同年10月20日、当時の憲兵長が「一般の人々の心に悪影響を及ぼす」として、現在のロシア連邦の北にあるアルハンゲリスク州に警察の監視下の元で作詞家を追放。しかし、詩の人気は衰えること無く、1863年、同詩が掲載された文学雑誌「メタ」の第4号の出版で知名度は一層増すこととなる。
作曲家のМихайла Вербицькогоもこの詩を気に入った一人。この詩に合わせ当初は自身が演奏しながら歌うものだったが、愛国的な歌を多くの人たちと歌えるように合唱用として作り直す。初演は1865年3月10日。
国歌にふさわしい曲が完成したものの、この曲が採用されるまでは多くの時間を必要とした。ロシア帝国の支配、第一次世界大戦の混乱、ドイツの介入、ソ連への加入などの事情で公式採用するまもなく慣例として歌い継がれていく。
1917年から1920年には、一時的ではあるがウクライナ人民共和国と西ウクライナ人民共和国の両国国歌となったものの、ソ連邦時代は「ウクライナSSRの国歌」が公式の国歌として歌われた。
1992年1月15日公布された法律No17 “ウクライナの国歌について” により、1978年から使われていた「ウクライナSSRの国歌」 が無効になり、代わりに「メロディの作者がМ. М. Вербицькийであるウクライナの国歌の音楽を承認する」と定められた。施行は翌日。ここでメロディのみが承認される。歌詞とメロディ両方が法律的に認められたのは2003年3月6日、法律No24にて原文の一部を歌詞に使うことで可決された。
歌詞の意味・和訳
世界の民謡・童謡 > 世界の国歌 > ウクライナ国歌
ウクライナの国歌
Ще не вмерла України і слава, і воля,
Ще нам, браття молодії, усміхнеться доля.
Згинуть наші воріженьки, як роса на сонцwі.
Запануєм і ми, браття, у своїй сторонці.
ウクライナの栄光も自由もいまだ滅びず、
若き兄弟たちよ、我らに運命はいまだ微笑むだろう。
我らが敵は日の前の露のごとく亡びるだろう。
兄弟たちよ、我らは我らの地を治めよう。
Душу й тіло ми положим за нашу свободу,
І покажем, що ми, браття, козацького роду.
我らは自由のために魂と身体を捧げ、
兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう。