米国による原爆投下…候補地は17ヶ所あった!? 広島が選ばれてしまった驚きの理由

米国による原爆投下…候補地は17ヶ所あった 国際

米国による原爆投下…候補地は17ヶ所あった!? 広島が選ばれてしまった驚きの理由(幻冬舎ゴールドライフオンライン 2022年10月22日)

※本記事は、本田幸雄氏の書籍『人類はこうして核兵器を廃絶できる 核廃絶へのシナリオ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

目標都市として京都にこだわったグローヴス

そんな中、グローヴスがトルーマンのもとを訪れた二日後の一九四五年四月二七日にグローヴスは、原爆を日本のどこに投下するか話し合う目標検討委員会に出席し、話し合いの結果、川崎、横浜、東京湾、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、呉、山口、下関、小倉、八幡、福岡、佐世保、長崎、熊本の一七ヶ所が選ばれました(一九四五年の暮れまでに、さらに一七発作るというのと符合します)。

その中で、京都と広島が有力候補に上がり、グローヴスは京都を上げました。その理由についてグローヴスは、「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々に行き渡る都市に落としたかった」と語っていました。

その三日後グローヴスは、陸軍長官のスティムソンに呼び出され、「京都は認めない」と言われました。その訳は、イェール大学の図書館に保管されていますスティムソンの一九四五年六月六日付の日記に「この戦争を遂行するにあたって気がかりなことがある。アメリカがヒトラーを凌ぐ残虐行為をしたという汚名を着せられはしないかということだ」と記していました。

実はスティムソンは京都を二度訪ねたことがあり、京都をよく知っていました。グローヴスは、諦めることなく何回もスティムソンと交渉をしましたが、結果は同じでした。グローヴスは何とか、戦争が終わる前に原爆を使用しなければならないと考えていましたが、その理由について彼は、「莫大な国家予算(二二億ドル)を費やした原爆が完成しているのに使わなければ、議会で厳しい追及を受けることになる」とその責任者として効果を証明しなければならなかったと言っていました。

トリニティ実験の五日後の七月二一日、ポツダムのスティムソンのもとに緊急の電報が届き、グローヴスらが再び京都を目標とするように言ってきたと知らせてきました。スティムソンの七月二四日付の日記には「私は京都を目標から外すべきだと大統領に伝えた。もし一般市民が暮らす京都に原爆を落とすという理不尽な行為をすれば、戦後の和解の芽をつみ、日本が反米国家になってしまうと。すると大統領は『全く同感だ』と答えた」と記されていました。

また、トルーマンの七月二五日付の日記にも「この兵器は七月二五日から八月の間に使われようとしている。私はスティムソンに兵士や軍事物のみを目標とし、一般市民、特に女性や子供をターゲットにすることがないようにと言っておいた。……この点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は軍事基地のみに限られる」と記されていました。

しかし、グローヴスは、それでも原爆による最大の破壊効果を得たいがためにもう一つの有力候補に上がっていた広島に目をつけ、広島は軍事都市であると偽りの報告書をトルーマンに提出しました。

トルーマンは(スティムソンも)広島について詳しく知らなかったのか、調べる暇がなかったのか、トルーマンが目標から広島を外すことはなかったようです。軍部官僚の執念深さが表れています。

原爆投下実験

一九四五年七月一六日にニューメキシコ州ソコロの南東四八キロメートルの地点で人類最初の核実験(トリニティ実験)が行われました。高さ二〇メートルの鋼鉄製の爆発実験塔に爆縮型プルトニウム原子爆弾のガゼットが設置されました。

最上級の研究者や軍人たちのほとんどは実験塔から一六キロメートル南西に設けられたベースキャンプから実験を見守りました。その他の多くの見物人は三二キロメートル離れた位置にいました。

現地時間(アメリカ山岳部戦時標準時)の七月一六日五時二九分四五秒に爆弾は爆発し、TNT換算で約一九キロトンのエネルギーを放出しました。

爆発の瞬間、実験場を取り囲む山々は一秒から二秒の間、昼間よりも明るく照らされ、爆発の熱はベースキャンプの位置でもオーブンと同じくらいの温度に感じられた、と報告されています。観察された爆発の光の色は紫から緑、そして最後には白色へと変わりました。衝撃波による大音響が観察者のもとに届くまでには四〇秒かかりました。

爆発の衝撃波は一六〇キロメートル離れた地点でも感じることができ、キノコ雲は高度一二キロメートルに達しました。放射能を含んだ雲は高レベルの放射線を放射しながら北東へ約一六〇キロメートル移動しました。

この核実験をもって「核の時代」の幕開けとなりました。

この爆発で砂漠の爆心地には放射能を帯びたガラス質の石からなる深さ三メートル、直径三三〇メートルのクレーターが残されました。原爆実験の結果は、ただちにドイツのポツダム会談に臨んでいるトルーマン大統領に知らされました。この情報を考慮して、原爆投下の最終決定はポツダムで決定されることになりました。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『人類はこうして核兵器を廃絶できる』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。

本田幸雄
1942年、島根県生まれ。東京大学工学部機械工学科卒業。
通産省入省、重工業局、資源エネルギー庁、工業技術院、(文部省出向)長岡技術科学大学教授、通産省機械情報産業局、中国通産局長。通産省退職後、医療福祉研究所、(財)愛知国際博覧会協会などを経て、現在、(株)二十一世紀新社会システム研究所代表。
著書に『21世紀の社会システム』、『水田ハ地球ヲ救ウ』、『ベンチャービジネス成功への決定的条件』、『西暦2000年への選択』(監訳)、『地球白書』(監訳)、『21世紀地球システムの創造』(共著)、『21世紀地球システムの創造』(共著)、『「グローバル・サンシャイン計画」で防ぐ劇症型地球温暖化』(幻冬舎、2021年5月)、『人類はこうして核兵器を廃絶できる』(幻冬舎、2021年11月)、『アフリカのホモ・サピエンスが天皇制国家・日本を建国するまでの歴史』(幻冬舎、2022年2月)、『日米中一五〇年の歴史─日本は米中冷戦を防ぐために何をすべきか』(幻冬舎、2022年2月)、『劇症型地球温暖化の危機を資本主義改革で乗り越える』(幻冬舎、2022年3月)など。

本田幸雄『人類はこうして核兵器を廃絶できる』
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