プーチンがいなくなっても侵略行為は終わらない!背景にあるロシア特有の被害者意識や支配欲…日本人が知っておきたい重要なポイントを歴史から解説(Wedge6月号 2025年5月26日)
世界潮流を読む 岡崎研究所論評集
2025年5月5日付のウォールストリート・ジャーナル紙は、脅威は北大西洋条約機構(NATO)ではなくロシア側から来るのであって、ウクライナ戦争が終わればエストニアをはじめNATOへの脅威は高まるであろうとする論説記事を掲げている。
プーチン大統領は、NATO拡大がウクライナ戦争の「根本原因」の一つだと主張するが、エストニア国民は異論を唱えている。ツァクナ・エストニア外相は「NATOがロシアにとって何らかの脅威だという話は、全くのデタラメだ」と言う。それは「彼も分かっているはずだ」。
ツァクナ外相の主張はこうだ。「ロシアが NATO を恐れているなら、なぜここの国境からウクライナへ部隊を移動させるのか?」ツァクナ外相は、16年から17年に国防相を務めていた当時、ロシアは約12万人の部隊を国境に展開させていたが、現在は「人影はほとんどない」と言う。
ロシアが22年にNATOの東翼からウクライナへ移動させた部隊の中には、エストニアから約 32キロ離れたプスコフに司令部を置く精鋭の第76親衛航空強襲師団も含まれていた。プーチン大統領は、北極圏に位置するヨーロッパとの国境を守っていたロシア唯一の機動旅団に加え、ノルウェーとフィンランドに近いムルマンスクにも展開していた部隊を移動させている。
もしプーチンが本当にNATOの拡大を恐れていたならば、これは特に大きな誤算ということになる。ウクライナ侵攻をきっかけにフィンランドとスウェーデンがNATOに加盟したからだ。
一方、キーウはNATO加盟を熱望しているが、現実的な見通しは立っていない。もしロシアが本当にNATOの脅威を認識しているのであれば、エストニアとの国境沿いに「固定された障害物」や「パトロール活動」が見られるはずだと、元欧州駐留米軍司令官のホッジス将軍は述べている。
ホッジス将軍は、もしNATOに侵略的な意図があるのであれば、「(NATOは)破壊工作、インフラの破壊、あらゆる種類の違法行為、領空侵犯」を行っているだろう、と述べた。「このような行為は国境のロシア側では何も起こっていない」。
これに対しロシアは、バルト海の死活的に重要なパイプラインや通信ケーブルを破壊した疑いがある。昨春、ロシアはエストニアとの国境線を区切るナルヴァ川のブイを撤去し、偵察気球を使って川の向こう側を偵察した。
エストニア警察国境警備局のベリチェフ局長によると、彼らは国境付近で絶えず GPS 妨害を行っているという。昨春、フィンランド航空は信号干渉のため、エストニア中南部の都市タルトゥへのフライトを1カ月間停止せざるを得なかった。
エストニアは22年以降、ロシアからの入国を大幅に制限しているが、二重国籍者や欧州でその他の法的地位を持つ者は依然として入国できる。ロシアに居住、またはロシアに大規模な事業展開をしている二重国籍者は「容易に危険にさらされる」と、コイドゥラ国境警備隊の責任者であるピーター・マラン氏は述べている。国境警備隊は、国境を越える者たちから、携帯電話、メモリーカード、メモ、エストニアの要衝の写真など、不審な所持品を発見している。
エストニア国民は、かつて国境の向こう側に不気味に駐留していたロシア軍をウクライナが足止めしてくれたことに感謝している。しかし、ウクライナに平和が訪れれば、ロシア軍は自由に行動できるようになり、NATOに対するロシアの脅威は高まるだろう。
ロシアが本当に恐れていること
NATO拡大がウクライナ戦争の「根本原因」ではないとする本件記事にあるエストニア外相等の見方に同意する。ただそれは、そもそもプーチがNATOを脅威と認識していないということではない。そうでなければ、記事にあるように、ウクライナ戦争以前にエストニア国境の向こう側にロシア軍が「不気味に駐留」することもないのである。
プーチンがなぜにウクライナへの全面侵攻を決断したかという問題と、プーチンのNATOに対する脅威認識の問題は、基本的に異なる領域に属する。以下ではこれらの問題につき、政治・軍事的側面と精神的・思想的側面の両方の観点から述べておきたい。
プーチンがNATOをロシアに脅威を与え得る敵対勢力であると見ていることは疑いない。2010 年代以降、カリーニングラードに地上軍やミサイル部隊を増強し、ベラルーシへの事実上の駐留を進め、クリミアを「不沈空母化」してきたのは、NATOに対する防衛態勢を築くために他ならない。これらの動きはウクライナ侵攻とは直接関係のない、プーチンの対NATO戦略に基づくものである。
他方、ロシアの脅威認識を十分に理解するためには、その背後にある精神的・思想的側面をも理解する必要がある。その一つがロシアに特有の強烈な被害者意識である。
ロシア帝国の時代から今日に至るまで、ロシアは常に外国勢力から攻撃を受ける可能性を懸念し、「軍事力を強化しなければやられてしまう」という脅迫観念を持ち続けてきた。13世紀にはモンゴルの襲撃、近代にあってはナポレオンの侵攻、革命期にはシベリア出兵、そしてドイツの侵攻とロシアが外部勢力からしばしば干渉を受けてきた歴史がある。「ロシアの信じるのは力だけ」等と言われる所以がここにある。
ロシア特有のメシアニズムの思想
ただもう一つ、ロシアの行動を理解する上で重要なのは、ある種のメシアニズム思想の存在である。伝統的に、ロシアは他の国々より道徳的に優位にあり、世界を救う特別の使命のある国とする思想がロシアにはある。ロシア語という言語に対し特別の地位を与える発想もこの思想と関連し、それが政治的な拡張主義と相俟っている。
ウクライナが長らくNATO加盟を望んでいることは周知の事実であるが、08年のNATOブカレスト・サミットで、NATO全加盟国が「ウクライナおよびジョージアがNATO加盟国となることに合意した」と宣言して以来、クリミア併合が行われた14年までを含め今日に至るまで加盟を実現するための実質的な動きは何も進んでいない。要するにウクライナのNATO加盟について、NATOはリップサービス以上のものを与えていない。
そしてロシアの優秀な外交官や情報機関がこの点につき異なる見解をもっていたとは考えにくい。つまり、ロシアのウクライナ侵攻が、ウクライナが近く NATO に加盟するかもしれないからこれを阻止するために行われたわけでないことは明らかである。ロシアによる全侵攻は、直接的にはプーチンの支配欲と長期政権の驕りが影響したと考えられる。
ただそれだけではなく、上述のロシアに特有のメシアニズムの思想が、支配欲や驕りといった情念的要素に対し思想的な正当性を付与する役割を果たしている。13年から20年までプーチン大統領の下でイデオロギー担当の大統領補佐官を務めたスルコフ元大統領補佐官は、「ロシアの文化的、情報的、軍事的、経済的、思想的、人道的影響が、多かれ少なかれ浸透しているあらゆる場所」が「ルスキーミール(ロシア世界)」であるとした上で、ロシア人は「あらゆる方向に拡大」すると説明している。
ウクライナは国家ではなく「人為的な政治体」であるとの位置づけはこのようなロシアの世界観にその基礎をおいている。このことは我々にとって、プーチンがいなくなれば侵略行為は終了するという楽観論に立つことができないことを意味している。
◇
岡崎研究所 (おかざきけんきゅうじょ)
駐サウジアラビア大使、駐タイ大使を務め、外交史家、著述家でもあった岡崎久彦氏(1930~2014年)が2002年に設立。国際情勢を判断するための外交・安全保障に関する情報提供事業として、外国メディアの外交・国際情勢に関する社説、論説、解説記事等の概要を紹介し、それにコメントを付した情報分析を政府機関や企業等に提供、国際情勢についての研究会を開催している。