<視点>政治献金やめない経団連 「社会貢献」というカムフラージュ 編集委員・久原穏
<視点>政治献金やめない経団連 「社会貢献」というカムフラージュ 編集委員・久原穏(東京新聞 2024年6月19日 06時00分)
「政治献金するお金を被災地に送れば、それこそ立派な社会貢献となるのに…」
5月中旬、経団連が開いた記者発表の後で、聞こえよがしに毒づいてしまった。
経団連の会員企業が能登半島地震で被災した小学生に学用品を送るという社会貢献活動の発表だった。何か宣伝くささを感じたものの、能登の子どもたちは喜ぶかと思い、発表会見に出た。
嫌な予感は的中した。ご丁寧にも学用品を袋詰めする作業を報道撮影用に公開するという。撮影会場に行くと、児童に送るクリアファイルや鉛筆セットなどに「○○化学」「△△銀行」など、企業名がしっかり入っていた。
目くじらを立てるほどのことではないのかもしれない。営利企業なのだから、この程度のPRは当然だと思う人もいるだろう。だが、そこに利に聡(さと)い経団連らしさや自民党への企業・団体献金を社会貢献だと言い張る独善性を感じとるのは筆者だけだろうか。
今回の政治資金規正法の改正論議でも、多くの国民の声に反して政治献金を見直そうというそぶりさえ見せない。傍観者に徹し、嵐が過ぎ去るのを待つかのようだった。
そもそも経団連はリクルート事件などを受け、1994年に企業・団体献金への関与をやめたはずだ。国民負担による政党交付金制度もできたのに、2004年になし崩し的に政治献金を再開した。最近では年間25億円近くを自民党の政治資金団体に献金している。十倉雅和会長は「間接民主主義にはお金がかかり、そのコストを企業が担うのは社会貢献だ」と繰り返す。
筆者は十倉会長の会見で政治献金を見直す考えはないかを再三質問した。「企業・団体献金と政党交付金を『二重取り』する自民党の金権政治は有権者の政治離れという民主主義の危機を生んでいる。政治献金は社会貢献などではなく、民主主義を脅かす反社会的な行為ではないか」
あるいは「経団連は献金再開に伴って政党の政策評価を行うようにしたが、経団連の政策要望に応えたか否かを献金の判断材料にするというのは、それこそ政策をカネで買うのと同義では」。
さらに「造船疑獄に巻き込まれ逮捕(不起訴)の経験がある土光敏夫氏は経団連会長の就任会見で『政治にはカネがかかるが、かけ過ぎると民主主義は滅ぶ』と言って企業・団体献金をやめた。土光氏に倣うべきではないか」―。
十倉氏は耳を傾けなかった。逆に「企業・団体献金を全てやめて政党交付金だけでいくなら、今の金額でいいのか。2倍、3倍にしなければならないのか」と投げ返した。自民党を献金で支える現状を維持したい意向がにじむ。
だが、問題の本質は「政治にはカネがかかる」という常識を改め、いかに「カネをかけ過ぎない政治」へ転換するかだ。カネの出し手側の経団連は考え方を根本的に変える必要がある。
経団連・十倉雅和会長「ナンボでも政治献金することはない」けれど…メザシの土光さんの「廃止」論に同調せず
経団連・十倉雅和会長「ナンボでも政治献金することはない」けれど…メザシの土光さんの「廃止」論に同調せず(東京新聞 2024年4月23日 19時37分)
自民党の裏金問題に関して企業団体献金のあり方が問われる中、経団連の十倉雅和会長の23日の会見で、かつて経団連会長に就きながら清貧の生活ぶりで知られた土光敏夫氏と十倉氏との考え方の違いが鮮明になる場面があった。
「お金をかけすぎると民主主義を破壊する」
一方の土光氏は1974年に経団連会長に就任した際の会見で「政治にはお金がかかる」と述べたうえで「だが、お金をかけすぎると民主主義を破壊する」と強調。造船疑獄で自らが逮捕された経験もあり、「企業は政治献金をすべきではない」を持論として経団連が政治献金に関与しないよう政治改革に全力で取り組んだ。
十倉氏は、企業団体献金の廃止を求める声が高まっていることについて「政治にはお金がかかる。(廃止するよりも)透明性を高め、ルールを守るという実効性を伴った制度にするかを与野党で議論すべきだ」と述べ、献金廃止に反対の考えを示した。
「政治にお金がかかるのは根源的な問題」
こうした土光氏の例を記者から質問された十倉氏は「私も、政治にお金がかかるからといってなんぼでも(献金を)出すというのではない。政治にお金がかかるという根源的な問題をどうとらまえるか、国会で議論をしてほしいということだ」とあくまでも廃止論と距離を置いた。(久原穏)