「保守本流」自民・茂木派、存続の危機 先行解散仕掛けた岸田首相【解説委員室から】(JIJI.COM 会員限定記事 2024/2/10(土) 13:00配信)
自民党安倍派などの政治資金規正法違反事件の余波で、茂木敏充幹事長率いる茂木派(平成研)が解散の危機に立たされている。岸田文雄首相(総裁)が岸田派(宏池会)の解散を決めたことで、派閥の存在自体への風当たりが一気に強まり、退会者が続出。かつて「キングメーカー」として権勢を誇った「保守本流」派閥が存続できるか、見通せないのが実情だ。(時事通信解説委員長 高橋正光)
佐藤派が源流
茂木派までの歴史をさかのぼると、佐藤栄作元首相が結成した佐藤派(周山会)に行き着く。吉田茂元首相の「弟子」である佐藤氏は、吉田門下でライバルの池田勇人元首相とたもとを分かち、派閥を結成した。佐藤氏の次男・信二元通産相が生前語っていたところによると、佐藤派のスタートは佐藤氏を含めて実質3人。吉田派内で佐藤氏を慕う橋本龍伍、小渕光平の両氏が、派閥結成を働き掛けたという。
2人の死後、それぞれ地盤を引き継いだのが息子の橋本龍太郎氏と小渕恵三氏。いずれもその後、派閥をバックに総裁選に勝利し、首相に上り詰めた。
佐藤派を結成した佐藤氏は要職を重ねながら、人数を拡大。病気で退陣した池田氏の後継として首相に就くと、人事権を巧みに使って党内を押さえ、7年8カ月の長期政権となった。佐藤氏は沖縄返還を花道に退陣したが、後継に考えていたのは福田赳夫氏。しかし、佐藤派幹部だった田中角栄氏は、佐藤氏の意向を察知すると、佐藤派の大半をまとめて田中派を結成した。
信二氏によれば、佐藤派メンバーの大多数が田中氏についていったのは、同氏の豊富な資金力から。佐藤氏は造船疑獄で逮捕寸前(犬養健法相が指揮権発動)となったことを教訓に、カネ集めにほとんど関与しなくなり、佐藤派内でそれをカバーしたのが田中氏だったという。
「ポスト佐藤」を選ぶ1972年の総裁選で田中氏は、福田氏らとの激戦(いわゆる角福戦争)を制し、首相に就任した。以降、自民党政治の底流には、田中派と福田派(清和会)の対立が絶えずあった。
田中派、裁判対策で100人超
田中内閣は米国に先んじて、中国との国交正常化を実現したものの、金脈問題で退陣。その後、田中氏はロッキード事件で逮捕、起訴された。裁判を抱える田中氏は自身の影響力維持のため、派閥の拡大に腐心。田中派は最盛期で100人を超える巨大派閥となった。そして、総裁選では自派から候補者を立てず、田中派が支持する候補が勝利する構図をつくり上げ、「キングメーカー」として政界に君臨した。
30本以上の議員立法に関わるなどの政策立案力、日中国交正常化に象徴される決断力と行動力、弁舌で人を引き付ける発信力などが政治家・田中氏の「強み」。一方で、カネが物を言う政治、政界に「金権体質」を醸成させたことや、「票」の見返りに、地元に予算や公共事業を引っ張ってくる「利益誘導政治」を根付かせたことなどは「負の遺産」と言えよう。
田中氏の利益誘導を象徴するのが、上越新幹線の新駅建設。自身の選挙区(衆院旧新潟3区)内に「浦佐」「長岡」「燕三条」の3駅を誘致した。浦佐駅前には、田中氏の功績をたたえ銅像が建てられている。長年の風雨で色あせた碑文には、「上越新幹線、関越自動車道の歴史的開通を記念し、田中角栄先生の銅像を建立し、不滅の功績と栄誉をたたえ、悠久に威徳を顕彰する」などと記されている。
筆者は信二氏がこう言うのを何回か聞いている。「角さんは功罪相半ばする政治家。金権政治を助長したのは角さんの責任だ」
佐藤派にしろ、池田氏が創設した池田派(宏池会)にしろ、自民党の派閥は、領袖(りょうしゅう)を総裁選で勝たせ、首相に押し上げるのが目的の一つ。しかし、田中氏は自身の権力維持を優先し、派内で総裁候補を育てなかった。これにしびれを切らしたのが、田中派のホープ・竹下登氏や田中氏に育てられた小沢一郎氏や梶山静六氏ら中堅議員。竹下氏らは極秘に賛同者を募り、派中派「創政会」を結成した。
竹下派、佐川急便事件で分裂
この直後、田中氏が脳梗塞で倒れ、竹下氏は田中派の大多数を糾合する形で、竹下派(経世会)を結成。竹下氏は1987年、中曽根康弘首相(当時)の裁定で党総裁に指名され、竹下内閣が発足した。最大派閥・竹下派を基盤とする竹下内閣は当初、長期政権が確実視されたものの、リクルート事件が直撃。竹下氏は予算成立と引き換えに辞任、竹下内閣は約1年7カ月の短命に終わった。
ただ、竹下派は最大派閥として、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一の各内閣の樹立を主導。同派会長の金丸信氏は党内で、絶大な影響力を誇った。
その金丸氏も東京佐川急便からの5億円の闇献金が発覚。政治資金規正法違反に問われ失脚した。そして、金丸氏の後継をめぐって、派内抗争が勃発。多数派工作で勝利した小渕氏が新会長に就いて小渕派(平成研)となり、敗れた小沢氏や羽田孜氏らは、同派を離脱した。
非自民連立の細川護熙内閣、羽田内閣、自社さ連立の村山富市内閣を経て、96年1月に橋本氏が首相に就任。参院選敗北で橋本氏が引責辞任すると、98年7月に小渕内閣が発足した。両内閣とも、発足の原動力になったのは小渕派にほかならない。
小渕派の会長職はその後、橋本氏、津島雄二氏、額賀福志郎氏、竹下元首相の実弟・竹下亘氏と引き継がれた。そして、前回衆院選後に幹事長に起用された茂木氏が2021年11月、亘氏の死去で空席となっていた会長に就任し、現在に至っている。
「参院のドン」との確執
岸田首相が岸田派の解散を表明すると、裏金事件で捜査対象となった安倍派と二階派は解散を決定。捜査対象ではなかったが、森山派も続いた。岸田派は党内第4派閥で、岸田首相は第2派閥の茂木派や第3派閥の麻生派に支えられて政権運営に当たっていた。全ての派閥が解散すれば、政権運営で派閥からの注文がなくなり、党総裁である岸田首相の権限が強まる。他に先んじての岸田派の解散は、全派閥を解散に追い込み、自身の権力基盤を固め直すことを狙った「奇襲作戦」と言える。
これに対し、麻生派と茂木派は解散を否定。その矢先の1月25日、小渕元首相の娘で茂木派の小渕優子選対委員長が退会を表明した。
優子氏に連動するかのように、参院執行部の関口昌一議員会長、石井準一国対委員長、福岡資麿政審会長や「参院のドン」と言われた故青木幹雄元参院議員会長の長男・青木一彦参院副幹事長も退会を表明。これを含め、1月末までに8人が茂木派を退会した。
優子氏らが仕掛けた「退会騒動」の背景にあるのは、茂木氏と青木幹雄氏との確執。安倍晋三元首相が3選された18年の総裁選で、茂木氏は安倍氏を支持。これに対し、派閥会長の亘氏や青木氏の影響下にある参院議員の大多数は石破茂元幹事長を支持し、派内で対応が割れた。
この結果、青木、茂木両氏の溝はさらに深まったとされる。こうした事情もあり、青木氏は優子氏の後見役として、「首相候補」に育てることを公言していた。青木氏の薫陶を受けた参院幹部が優子氏に続いてそろって退会したことから、党内では「シナリオを書いたのは参院側。将来の『小渕政権』を見据えた動き」との見方が支配的だ。
茂木氏は、派の運営方法を見直し、純粋な「政策集団」として茂木派を存続させる考えだが、退会者の続出で求心力の低下は否めない。茂木氏の「力の源泉」の一つは、党の資金と選挙での公認権を握る幹事長ポスト。しかし、党則で党役員の任期は「1期1年、連続3期まで」と定められており、岸田首相が9月の総裁選で再選されるかどうかに関係なく、茂木氏は幹事長から退くことになる。「ポスト岸田」をうかがう上でも、苦しい立場に立たされつつある。
衆院選へ強まる逆風
党政治刷新本部の中間取りまとめに従い、「カネと人事」を切り離された茂木、麻生両派が、「政策集団」への脱皮をアピールしても、事務所を持ち看板を掲げていれば、外形的に「派閥」であることに変わりはなく、多くの有権者はマイナスのイメージを持ち続けるだろう。そして、派閥に対して最大の解散圧力となるのは、年内が有力視される次期衆院選だ。
各メディアは衆院選報道で、候補者名簿に所属派閥を付けるのが通例。存続する麻生派と茂木派の候補者は(麻)、(茂)などと記され、無派閥の候補と色分けされる。有権者の派閥へのイメージが変わらない限り、選挙ではマイナスだ。選挙に弱い議員ほど、衆院解散が近づけば動揺するだろう。
麻生太郎副総裁の下で結束を維持する麻生派は別として、求心力の低下する茂木派から、さらなる退会者が出かねない。茂木派の存続が見通せないゆえんだ。
源流の佐藤派時代から数えて、佐藤栄作、田中角栄、橋本龍太郎、小渕恵三の4人の首相を輩出した派閥が、衆院選を前にその歴史に幕を閉じるのか? それとも、衆院選を乗り越えて存続するのか? 年内にも分かるだろう。