高学歴・理系エリートがカルトにハマる意外な訳 「論理」だけで世界を理解する危うさがある

高学歴・理系エリートがカルトにハマる意外な訳 社会

高学歴・理系エリートがカルトにハマる意外な訳 「論理」だけで世界を理解する危うさがある(東京経済Online 2022/11/24 10:30)

物江 潤  著述家、塾経営者

旧統一教会の記者会見でスポークスマンとして登場している勅使河原秀行・教会改革推進本部長が京都大学農学部出身であることはよく知られている。一般的にカルトやそれに近いと見られている団体や宗教に高学歴の信者やメンバーがいることは珍しくない。かつてオウム真理教による事件が頻発していた時期には、幹部に高学歴、しかも理系のエリートが多数存在したことが大いに注目を集めた。

「論理的思考能力が高いはずの彼らが、“空中浮揚”なんてものをなぜ信じるのか?」多くの人がこんな疑問を抱き、当時議論の対象にもなったものである。

『デマ・陰謀論・カルト スマホ教という宗教』の著者、物江潤氏は、これに対して「理系だからこそハマった」という見方を示している。そのうえで、現代においてはスマホがこうしたおかしな「信者」を生む構図が見られる、と指摘する。一種の「スマホ教」という宗教が生まれているというのだ。(※本稿は同書から抜粋して再構成しました)

論理だけで世界を理解する危うさ

無数に出版されたオウム関連本を読んでいくと、「なぜ理系で論理的な彼らが……」といったフレーズをよく目にします。しかし、むしろこれは理系だからこそと理解するべきです。オウムが理系の学生をとくに狙って勧誘したという背景もありますが、多くの理系の学生が教団に導かれていったのには、それなりの理由があります。

理系の学問は参入障壁が高いものの、一度そこを乗り越えれば途端に面白くなり、知的刺激が高まっていきます。無我夢中でペンを走らせ数式を解いていくと、極めてシンプルな原理原則から複雑な現象が説明できることがわかり、どんどんのめり込んでいく学生も多い。

古典物理学における力学など、究極的には3つの原則(ニュートンの運動法則)から数学を駆使することですべての法則を導くことができ、複雑な自然のありようが説明され、しかも実験により実証されていきます。こうしたシンプルさと美しさ故に、自然科学のすごさを過信してしまうどころか、神の姿を見る人さえいます。

しかし、それだけ美しく表現できる範囲は、残念ながら非常に限られてもいます。しかも、その限られた世界でさえ、得られるものは仮説です。

一方で、世の中では完全に論理で説明はできなくても「~すべき」「~してはいけない」というものがたくさんあります。「人を殺してはいけない」などはその代表例でしょう。なぜ人を殺してはいけないのか、を論理で完璧に説明することは不可能です。

それは価値観に関わることで、「規範論」のジャンルの問題になります。こちらは理系の論理ではなく、伝統や文化、慣習などに基づいています。それ故に、規範論は論理性・実証性が劣るわけですが、自然科学では決して説明できない範囲について語ることができます。

このような規範論を無視して、理系的な論理だけをもとに世界や人生を考えるのは危険です。世界や人生はとてつもなく広大である一方、自然科学が説明できる範囲は非常に狭いからです。自然科学的な見方に偏重して考えれば考えるほど「なにが正しくて、自分は何をすべきかがわからない」という空白地帯が広がりかねません。

そんなとき、カルトはやってきます。空白を埋められず苦悶する人々に対し、救いの手を差し伸べるのです。

オウム幹部の悩み

以前私は、オウム真理教の幹部が出演した『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)を視聴する機会を得ました。麻原彰晃、上祐史浩、村井秀夫、杉浦実が出演した「激論 宗教と若者」(1991年9月放送)だと記憶しています。

同番組における上祐の弁舌はさすがの一言でした。後に「ああ言えば上祐」という不名誉なあだ名をつけられたような屁理屈ではなく、非常に論理的な弁が展開されたことで、オウムの修行が本格的且つ正統的なものであるという印象付けに成功していました。

麻原の宗教者然とした言動もあり、パネラーや視聴者から高い評価を受けたことは容易に想像がつきました。事実、田原総一朗が著した『連合赤軍とオウム』(集英社)によると、番組終了後にパネラーたちが「麻原は本物だ」と口にしていたようです。

しかし、麻原と上祐の言葉以上に、阪大理学部物理学科にダントツで合格し、同大学院の試験もまたトップでパスした村井の発言が、私にとってはずっと印象的でした。彼は、非常に限られた科学の範囲を広げたいといった旨を主張していましたが、ここに理系出身の信者たちによく見られる、ある種の無常観を想起したからです。

なす術なく死にゆく患者、自分が生きる意味、到達しない真理といった大きな問題に対し、科学が無力であると痛感した信者たちの様子は、無数のオウム関連本でもよく目につきます。

そのなかでもとくに、林郁夫の『オウムと私』(文藝春秋)、早川紀代秀元死刑囚の『私にとってオウムとは何だったのか』(川村邦光との共著、ポプラ社)、広瀬健一元死刑囚の『悔悟』といった本人による手記を読むと、悩める彼らの姿がありありと浮かんできます。

彼らが抱えた問題は、科学が記述できる範囲から明らかに外れています。皮肉なことに、ありったけの時間・労力を科学に注ぎ込んでも一向に解決しないどころか、むしろ虚しさを蓄積することになりかねません。その虚しさが世俗を包み込んだ先に、現世否定的な超越世界をオウムに見てしまったと考えるのは、少し深読みのしすぎでしょうか。

村井が愛読した『かもめのジョナサン』(リチャード・バック著)を読むと、世俗的な価値観を投げ捨て、よりよき生のあり様を追求した村井や信者の姿が見えてきます。

同書は、「ぼくの心境はこの本に書いてある」とし、村井から母の手に渡されていますが、豊かさの追求が自明の目的だった時代を生きた母としては、村井の生き方を理解するのは難しかったと思います。

スマホを使わない時間の重要性

かつて、日本には多くの人が共有できる大きな物語がありました。高度経済成長期であれば、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種の神器の所有を目指し懸命に働いたように、より良き生活のため直進的に発展していくストーリーがありました。

労働の意味や訪れる困難も、この物語を前に進めるためだと理由付けができたのです。一所懸命働けば、その分、給料を得ることができる、組織で出世すれば給料は増える、その結果、生活は豊かになっていく、というストーリーです。

ところが、そんな大きな物語は、もはやどこにも見当たりません。物語を信じることで得られたメリットが消え不安定になった私たちは、世界観を求め苦悶することになります。

私たちの多くは、激烈な物語に放り込まれる経験をしないし、かといってかつてのような大きな物語を見つけることもできない。そんな虚しい世俗に見切りをつけ、現世を超越した精神世界に物語をつくることで「生きる意味」を探るという手法もありますが、そういう人たちが過激化してしまった末の最終形態がオウム真理教だと考えると、なかなかそこには飛び込めません。

そんななか、刹那的な生き方を強力に後押ししているのがスマホという武器です。ユーザーが気に入る情報・コンテンツが次から次へと流れ込んでくるのですから、刹那的・享楽的な日々にはもってこいです。

何もしない暇な時間があればこそ、そして人生を真正面から考えてしまうからこそ、「生きる意味」について考え込んでしまい、袋小路に入ってしまう。ならば、そんな難しい問題を棚上げし続ければよく、その手法としての刹那的な生き方もまた、決して卑下すべきでない処方箋だと思います。

生きる意味といった難題が頭に浮かべば、すかさずスマホを起動させればよいわけです。自分好みにカスタマイズされた情報・コンテンツが頭を埋め尽くし、悩みを考える隙間・時間はなくなっていくでしょう。

しかし、どうやらスマホは想像以上に賢すぎたようです。まるで心の奥底に隠していた「物語を渇望する自分」を察知したかのように、スマホは人々が望むような物語を提供し始めています。

コロナワクチンは人口削減計画のために作られた。国会議員や芸能人はゴムのマスクをかぶったゴム人間ばかり。トランプ大統領率いる光の銀河連合が闇の政府と戦っている……。今、こうした荒唐無稽な主張がネット上で増えていますが、これらは歪な物語に染まった人たちによるものです。

スマホを使わない時間の重要性

この異常な世界は、まるでヒーロー映画やロールプレイングゲームのようにできています。凶悪で手ごわい敵を倒すべく立ち上がった同志とともに幾多もの苦難を乗り越え、日夜ネットの内外で活動をするのです。熱い使命感を胸に宿し、世界や日本のために仲間と突き進むわけです。

しかも、この世界には神様のように崇め奉られるリーダーやインフルエンサーがいます。皆とともに心から信じる神に祈り、神から発せられる言葉に胸を打たれ涙し、そして明日への活動の糧にするのです。生きる意味・心地よい居場所・かけがえのない仲間・そして心酔できる神のような存在までそろっていれば、この奇怪な物語に染まった生活は充実するに決まっています。

こんな馬鹿げた世界を信じる人は元来病的だったのであり、自分とは無関係だと考えるかもしれません。が、旧統一教会による巧みなマインドコントロールの実態が明らかになった今、本当にそんなことが言えるのでしょうか。

スマホ教の世界もまた、それらに引けを取らない、人々の思考を塗り替えてしまう強力な仕組みで満ちています。そしてそれは、物語を欲する私たちに対し、スマホが提供した最適解なのかもしれません。

しかし、スマホはスマホを利用していない時間については責任を持ちません。スマホの外にある世俗が崩落しようとも、一向に構わないのです。

スマホが賢いだけに、それを利用する私たちも賢さを持たないと、いつのまにかスマホの知性に人生を乗っ取られてしまいます。

デマ・陰謀論・カルト (新潮新書) 新書

物江 潤(ものえ じゅん) 著述家、塾経営者
1985年福島県生まれ。2008年早稲田大学理工学部社会環境工学科を卒業後、東北電力株式会社に入社。2011年2月同社を退社。2019年5月現在は地元・福島で塾を経営する傍ら、フィールドワークと執筆にも取り組む。著書に『聞き歩き福島ノート』など。