小泉訪朝、功労者は笹川陽平氏 飯島元秘書官明かす―初の首脳会談から20年・インタビュー
小泉訪朝、功労者は笹川陽平氏 飯島元秘書官明かす―初の首脳会談から20年・インタビュー(JIJI.COM 2022年09月17日07時44分)
小泉純一郎元首相の2度の北朝鮮訪問に深く関わった飯島勲元首相秘書官(76)=現内閣官房参与=は16日までに時事通信のインタビューに応じ、訪朝実現の影の功労者は日本財団の笹川陽平会長(83)だったと明らかにした。主なやりとりは次の通り。
日朝首脳会談から17日で20年。
笹川氏の力を借り、小泉首相の2002年の訪朝が実現した。国連総会で米ニューヨークに滞在していた時、宿泊先の「キタノホテル」に笹川氏から緊急連絡があった。「金正日総書記から4項目の回答をもらった。すぐに北朝鮮に行くべきだ」という話だった。
具体的には。
日本人拉致については、自分は知らなかったとして謝罪する。日本で拉致された可能性がある人についても安否情報を調べて回答する、などの話がもたらされた。
なぜ笹川氏がパイプ役だったのか。
カーター元米大統領が1994年に訪朝した際、当時の金日成主席や金正日氏とどうしても会談したかったが、米国にはチャンネルがなかった。そこで最終的にカーター氏は笹川氏にお願いして会談を実現した。
小泉訪朝当時は既に金日成主席は亡くなっていたが、金正日総書記と笹川氏は言いたいことを言い合える間柄だった。私と笹川氏も40年以上の付き合いで、何とか訪朝できるように水面下で一生懸命努力してくれた。
小泉首相の訪朝は2回で途絶えた。
実は3回目の訪朝も内々に交渉をやろうとしていたのだが、2回目の訪朝直後、米国のケリー国務次官補が「核開発計画の大半は軍事目的だと北朝鮮が認めた」と公表してしまった。これを受け、小泉首相も「拉致問題の解決は遠のいた。3回目の首脳会談は無理だ」となった。それがなければ、解決するまで何回でもやっていた。
日朝関係の現状をどうみるか。
小泉政権の後の政府は、拉致被害者が全員生きていなかったらどうしようなどと、極端なリスクを背負うことを嫌っていると思う。でも、政治的にはある程度のところで決着をつけなければならない。それをどのレベルでやるのかは、時の首相の判断だ。
とことん交渉し、情報を公開し、国民がこれでは納得せざるを得ないよね、という状態にまで持っていって着地させる。その決断は首相にしかできない。
集会に出て拳を上げて、海外首脳との会談で拉致問題への協力をお願いする。他力本願なだけで、それではだめだ。
蓮池さん「めぐみさんは何度も日本に帰りたいと」 横田さんへの思い
日朝首脳会談から17日で20年。拉致問題は今も解決にはいたらず、2002年当時のうねるような世論の盛り上がりもなくなったように見える。会談をきっかけに24年ぶりに故郷の土を踏んだ新潟県柏崎市の蓮池薫さん(64)は、こうした現状に危機感を抱く。帰国当初は講演する機会が多くなかったが、近年は壇上に立って強い口調で解決を訴えることが増えた。「拉致家族の再会が実現しなければ何も解決しない」。政治家や世論との拉致に対する温度差があるなか、蓮池さんは今も訴え続けている。
「日本に帰りたい」。北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(行方不明時13歳)は、現地で蓮池さんに何度もそう訴えたという。めぐみさんは、北朝鮮の人がいる場所でも日本への望郷の念を隠そうとしなかった。「その話は内輪だけでしましょう」。危険を顧みずに自分の気持ちを言葉にするめぐみさんに、蓮池さんはそうなだめるしかなかった。蓮池さんがめぐみさんをめぐる思い出を語った。
蓮池さんによると、めぐみさんとは一時期、北朝鮮で同じ地域に暮らしていた。94年3月、めぐみさんが精神科病院に入院することになった。めぐみさんは病院での治療の効果に期待している様子だったという。中身は覚えていないが、見送りの言葉も交わした。送迎の車に乗り込んだめぐみさんに手を振ると、「かすかにうなずいたように見えた」と蓮池さんは振り返る。めぐみさんの姿を目撃したのはそれが最後だった。
北朝鮮は当初、めぐみさんについて「93年3月に死亡した」と説明していた。しかし、蓮池さんが94年まで姿を見ていたと帰国後に証言すると、北朝鮮は時期を訂正した。
北朝鮮はさらに、「めぐみさんの遺骨」として提供し、後に別人のものと判明した骨について「夫が保管していた」と主張した。それについても蓮池さんは「夫とは週5回会い、骨つぼを保管していたとされる場所にもたびたび行った。何かを隠せるような部屋ではなく、骨つぼなどを置いている様子はなかった」と反論する。
蓮池さんはめぐみさんについて、「双子の弟がいて、という家族の話もよく聞いた。帰りたい気持ちがよっぽど強かったんだと思う」と語った。