生命はなぜ左手型のアミノ酸を選んだのか、ノーベル化学賞の硤合反応と二つの「対称性の破れ」(JBpress 2026.10.12(月))
【澤田哲生の「科学と社会のあいだ」】小林・益川と南部の「破れ」、硤合憲三とカガンの成果が照らす生命の起源
澤田 哲生 エネルギーサイエンティスト
2026年のノーベル化学賞は、東京理科大学の硤合憲三(そあい けんそう)さんと、フランスのアンリ・カガンさんに贈られることが決まりました。授賞理由は「不斉有機合成における非線形効果と自己触媒作用の発見」です。硤合さんらが見つけた“硤合反応”は、右手型と左手型がある分子で、どちらかがほんのわずかに多いと、多いほうが自分と同じ型を次々に増やし、やがて全体を片方にそろえてしまう反応です。
硤合反応自体はアミノ酸の反応ではありませんが、生き物をつくる重要な分子であるアミノ酸がなぜ左手型ばかりなのかという謎に手がかりを与えるものでした。
この報に接して、筆者がまず思い浮かべたのは、小林誠さんと益川敏英さんの「CP対称性の破れ」との関係でした。
宇宙は物質と反物質のうち物質だけを残しました。生命はアミノ酸の右手型と左手型のうち左手型だけを選びました。どちらも「本来は半々のはずなのに、片方だけが残った」という話です。両者は同じ根をもつのか、それとも他人のそら似なのか。
自然界の四つの力と鏡の中では別物になる力
右手と左手は鏡に映すと互いに入れ替わりますが、どう回転させても重ねられません。分子にもこういう「右手型」と「左手型」があり、性質はほとんど同じです。
通常、左右を選び分ける特別な条件を設けずに合成すると、実験室では両方がほぼ半々にできます。ところが、生き物のタンパク質を作るアミノ酸は、ほぼすべて左手型です。一方、DNAやRNAの糖はすべて右手型です。生命は、分子の種類ごとにどちらか片方にそろえているのです。
自然界には四つの基本的な力があります。
一つめは重力です。いちばん弱い力ですが、宇宙全体の形を決めています。
二つめは電磁気力です。電子を原子核につなぎとめ、原子どうしを結びつけて分子を作る力です。
三つめは強い力です。原子核の中で陽子と中性子を固く結びつけている力です。
四つめは弱い力です。原子核の中で中性子が陽子に変わり、電子を放出する「β崩壊」を引き起こす力で、太陽が輝くための核融合の第一歩にもかかわっています。
このうち重力・電磁気力・強い力は、鏡に映した世界でもまったく同じように働きます。ところが1957年、弱い力だけは鏡の世界と区別がつくことがわかりました。磁場でそろえたコバルト60の原子核から出る電子が、原子核の自転(スピン)の向きと逆の側にかたよって飛び出したのです。鏡に映した世界では、この偏りが逆向きになってしまいます。これを「パリティ(P、鏡像対称性)の破れ」と呼びます。
小林・益川理論は「二重の鏡」だった
小林・益川理論が扱うのは、左右を入れ替える鏡(P)だけではありません。左右の鏡に映したうえで、さらに物質と反物質を入れ替える(C)、いわば「二重の鏡」(CP)です。
弱い力はPもCもそれぞれ大きく破りますが、二つを重ねたCPはほとんど保ちます。そのわずかな破れのしくみを示したのが小林・益川理論で、物質だけが残った宇宙の謎にかかわっています。二人は、この破れが起きるには、当時3種類しか知られていなかったクォークが6種類なければならないと予言し、のちに実験で確かめられました。破れは、自然の法則そのものに書き込まれていたのです。
つまり、「宇宙が物質でできている理由」と「アミノ酸が左手型にそろっている理由」は、直接には別の問題です。筆者の当初の漠然とした予想は、半分は外れていたことになります。
ただ、残りの半分は当たっていました。アミノ酸の左右を決めた候補として浮かび上がるのが弱い力だからです。
分子の左右の安定性にかかわるのはPの破れで、小林・益川理論が扱うCPの破れとは異なります。それでも、どちらも弱い力に由来する対称性の破れという点で、遠くつながっているのです。
弱い力はアミノ酸の左右を決めたか
いくつかの計算によれば、弱い力のせいで、左手型のアミノ酸のほうがほんのわずかに安定になる可能性があるようです(計算により結果がばらつき、決着はついていません)。左右の性質は「ほとんど」同じと前述したのは、このためです。
ただ、その差は左右のエネルギー差を室温の熱エネルギーと比べて、10-17(10京分の1)から10-14(100兆分の1)程度にすぎません。小さいほうの見積もりで言えば、体重60kgの人に対する細菌1個ほどの重さです。仮に左右の分子が熱平衡にあれば、存在比の偏りも、ほぼこれと同じくらいの小ささになります。
一方、偶然による偏りはずっと大きくなります。コインを1億回投げると、表と裏の差はふつう1万回くらい出ます(差はおよそ回数の平方根になる)。比率にすれば1万分の1です。分子が左右半々の確率で一つずつ独立に生まれると考えると、分子1モル(約6×1023個)でも、偶然の偏りは比率で約10-12。弱い力による差より、少なくとも100倍、見積もりによっては10万倍も大きいのです。
実は小林・益川理論のCPの破れも、宇宙に残った物質の量を説明するには小さすぎます。宇宙でも生命でも、知られている弱い力の効果だけでは足りないのです。
わずかな差が雪だるま式に膨らむ理由
硤合さんが見つけたのは、「左手型の分子が、左手型の分子を作る手助けをする」反応です。右手型も同様です。ただし、これだけでは差は開きません。同じ利率で増える二つの預金のように、比率は変わらないからです。
差が開く鍵の一つは、右手型と左手型が出会うと組になり、手助けの働きを失うことにあると考えられています。一方、同じ型どうしの組は、手助けの働きをもちます。組は1対1でできるので、少ない側から先に働き手がいなくなり、多い側だけが余って増え続けます(実際の仕組みはもっと複雑で、今も研究が続いています)。
このような足し算では予想できない効果(非線形効果)を最初に示したのがカガンさんでした。実際、50.000025対49.999975というわずかな偏りが、3回の反応で99.75対0.25以上、つまりほぼ片方だけに広がりました。
最初に偏りを与えないと、左右どちらが勝つかは毎回ランダムに決まります。先端で立てた鉛筆を思い浮かべてください。鉛筆はどの方向にも倒れうる「不安定なつりあい」にあり、ほんのわずかなゆれで倒れる向きが決まります。そして一度倒れたら、もう戻りません。物理学では、これを「自発的対称性の破れ」と呼びます。
2008年の二つの「破れ」
思い出されるのは、小林さんと益川さんがノーベル物理学賞を受けた2008年、同時受賞が南部陽一郎さんだったことです。南部さんの業績こそ「自発的対称性の破れ」を素粒子の世界に持ち込んだこと、つまり鉛筆が倒れる話でした。小林・益川理論のほうは、法則そのものに組み込まれた偏りの話です。
整理すると、宇宙が物質でできていることにはCPの破れ(小林・益川型)がかかわり、生命の左右がそろったことについては、鉛筆が倒れた(南部型)と考えるのが最も有力な説明です。
ただし、硤合反応そのものは水の中では進まず、生命誕生前の地球にあったとは考えにくい試薬を使います。
硤合さんとカガンさんは、わずかな左右差が自己増幅で一方にそろうという倒れ方が、実在の化学反応として成り立つことを示しました。原始の地球で、どの反応が実際に鉛筆を倒したのかは、まだわかっていません。
ノーベル賞のあとも残る問い
残る問いは、鉛筆の倒れる方向を弱い力がほんの少し押したのか、それとも単なる偶然だったのか、です。
硤合さんたちは、偏光した光や水晶の結晶、さらには原子を重さの違う同位体に置きかえただけのわずかな左右差でも、反応の行き先が決まることを示しています。これほど敏感な増幅器があるなら、弱い力の「ひと押し」が左右を決めたのか、確かめたくなります。
ところが2019年、米スクリプス研究所のドナ・ブラックモンドさんらは、硤合反応で増幅の向きを決めるのに必要な左右のエネルギー差を見積もり、それが弱い力の生む差よりけた違いに大きいことを示唆しました。これほど敏感な増幅器でさえ、弱い力のささやきはまだ聞き取れないのです。
ただし、別の反応や、何段階もの増幅が重なった可能性は残っています。答えは、まだ出ていません。
筆者の予想は半分しか当たっていませんでした。けれども、2008年の受賞が並べた二種類の「破れ」は、ここで重なりうるのかもしれません。
弱い力が押したのだとすれば、それは自発的に倒れる鉛筆に、法則に組み込まれたかたよりがごくわずかな傾きを与えたことになります。鉄の中の小さな磁石たちが、かすかな外の磁場に導かれて一方向にそろうのと同じ構図です。
そう考えると、今年の受賞は、南部型と小林・益川型の二つが生命の起源で出会うかもしれない場所を化学の側から照らし出したのだと思えてきます。
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澤田 哲生(さわだ・てつお) エネルギーサイエンティスト
兵庫県立柏原高校から京都大学理学部物理学科卒業後、三菱総合研究所、独カールスルーエ研究所客員研究員を経て東京工業大学(現・東京科学大学)助教(2022年3月定年)。現在工学院大学非常勤講師。専門は原子核工学・原子力安全。2010年度より高レベル放射性廃棄物処分をめぐる『中学生サミット』を毎年開催。著書は『やってはいけない原発ゼロ』ほか。

