「何も無いところから宇宙が生まれた」って言うけど、一体どういうこと…第一級の物理学者がわかりやすく解説(Kodansha Bluebacks 2024.12.03)
佐藤勝彦
宇宙はどのように始まったのか……
これまで多くの物理学者たちが挑んできた難問だ。火の玉から始まったとするビッグバン理論が有名だが、未だよくわかっていない点も多い。
そこで提唱されたのが「インフレーション理論」である。本連載では、インフレーション理論の世界的権威が、そのエッセンスをわかりやすく解説。宇宙創生の秘密に迫る、物理学の叡智をご紹介する。
*本記事は、佐藤勝彦著『インフレーション宇宙論 ビッグバンの前に何が起こったのか』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。
「無」からどうやってエネルギーが生まれるのか
インフレーション理論は、素粒子のような小さな宇宙を巨大な「火の玉宇宙」にすることができるという理論です。きわめて小さかった初期の宇宙は、エネルギー的にも真空のエネルギーはあったものの、ほとんどゼロでした。ところが、インフレーションが終わった直後の宇宙は、相転移によって真空のエネルギーが熱エネルギーに変わり、火の玉になっている状態です。熱エネルギーがあるということは、膨大な量の素粒子が生まれて、ものすごく高速で動いているということでもあります。
こう言うと、疑問を持たれる方も少なくないでしょう。まるでインフレーションは見かけ上は何もないところから、「ただ」で宇宙の物質やエネルギーをつくっているように見えるからです。「エネルギー保存の法則はどうなっているのか」と思われるのは当然でしょう。
しかし実際、インフレーションは「ただ」で物質やエネルギーをつくったといえるのです。
もちろん、ここまでの議論に使っているアインシュタインの相対性理論は、エネルギー保存則を満たす方程式です。アインシュタインの方程式とあわせて使った力の統一理論の方程式も同様なのは言うまでもありません。にもかかわらず、これらの方程式から「ただ」でものがつくれるというのは確かにおかしなことで、これはまさにマジックといえそうです。はたしてその理由とは何でしょうか?
そのからくりは、真空のエネルギーの特殊性で説明することができます。実は、真空のエネルギーは不思議なことに、宇宙がどんなに大きく膨張しても、密度が小さくなることがないのです。
普通の物質を考えてみましょう。箱の中に物質を入れておいて、箱の大きさを2倍、3倍にしていくと、物質の密度は、2分の1、3分の1になっていきます。当たり前のことです。しかし、真空のエネルギーは、密度が決して小さくなりません。宇宙の大きさ(体積)が100桁大きくなっても、宇宙の中にある真空のエネルギーの密度は変わらず同じなので、真空のエネルギー量は体積が100桁増えた分だけ、大きくなるのです。このようにして大きくなった真空のエネルギーが、相転移で熱エネルギーに変わることによって、宇宙は火の玉になるのです。
こう言うと違和感があるかもしれませんが、真空のエネルギーは空間そのものに対しては押し広げる力を持っています。しかし、空間内の物質に対してはマイナスの圧力を持っていて、収縮しようとする力が働きます。ほかにちょっと例のない特殊なエネルギーなのです。
真空のエネルギーはまるで「ゴム」?
このことは、真空のエネルギーがある宇宙を、ゴムのようなものと考えるとわかりやすいでしょう。ゴムが引き伸ばされると、ゴムの中の縮もうとするエネルギーが増加しますね。これと同じように、宇宙が引き伸ばされる(膨張する)と、宇宙の中の真空のエネルギーも収縮しようとして増加するのです。つまり、宇宙が膨張すること自体が真空のエネルギーを増加させるのです(図「引き伸ばされると真空のエネルギーは増加する」)。
真空のエネルギーがどこから生まれるのかは、重力の「ポテンシャルエネルギー」という言葉でも説明できます。
たとえば、太陽の近くに小さな粒子を置いたと想像してみてください。最初、止まっていた粒子は、やがて重力によってどんどん加速しながら太陽に向かって落ちていくはずですね。
これを「ポテンシャルエネルギー」という言葉を使って説明しますと、最初の状態の粒子は、止まっているだけなので何もしていないように見えますが、実はポテンシャルエネルギーの量はこのときが最大です。ところが、落下して太陽との距離が縮まるにつれて、どんどん粒子のポテンシャルエネルギーは小さくなっていき、かわりに、もともとの状態ではゼロだった粒子の運動エネルギーが、太陽に向かって落下するうちに加速して、どんどん増加していくわけです。
これは一見、何もないところから運動エネルギーが生まれたようにも思えますが、実は粒子が太陽に引っ張られるエネルギー、つまり粒子のポテンシャルエネルギーが、運動エネルギーに転換されたのです。
インフレーションによって宇宙空間が急激な膨張をしているときも、これと同様です。膨張とは、ポテンシャルエネルギーで見れば落下しているのと同じ状態なのです。最初に生まれたときは、宇宙空間のポテンシャルエネルギーは最大です。ところが、落下するように膨張することでポテンシャルエネルギーは小さくなり、かわりに、まるで「無」から生まれたように真空のエネルギーがどんどん大きくなります。その真空のエネルギーが、相転移のときに潜熱となって熱エネルギーに変わり、宇宙は火の玉になるわけです。これが、エネルギーの動きから見たインフレーション理論です。
ですから本当に、ほとんど無のような状態からエネルギーをつくっているというメカニズムになっているわけです。
ここまで見てきたようにインフレーション理論は、従来あったビッグバンモデルの問題点をいくつも解決しました。そのため現在では、宇宙初期を考えるときの標準的なパラダイムになっています。「パラダイム」とは、完全に証明されたわけではないけれども、ひとつの学問分野として研究者たちがそれを信じて、研究を進めているものと理解していただければよいと思います。
ほんとうに宇宙は「無」から始まったのか
これまで、私たちの住む宇宙が、どのようにして現在のように巨大になったのかということを、インフレーション理論を用いて説明してきました。しかし、こうした話は少なくとも、もともと時空(=宇宙)というものがあったことが前提になっています。たとえどんなに小さくても、最初に時空がなければ、宇宙の膨張という話もできないわけです。
では、「その時空はどのようにしてできたのだ」と問われたら、どう答えればよいのでしょうか。「私たちの宇宙はお母さんの宇宙から生まれ、お母さんの宇宙はおばあさんの宇宙から生まれて…」と答えても、無限に続いていくだけで、質問に答えたことにはなりません。時空の、宇宙のそもそもの起源について、われわれは物理学者として語らなければならないのです。
この問いについて私は、インフレーション理論を創って2年目くらいの時期に、友人であるアレキサンダー・ビレンケンと議論をしたことがあります。彼が語ったのは、「無からの宇宙創生」という考えでした。のちに彼は、“Creation of universes from nothing” と題した論文を書きました。つまり、「宇宙は無(nothing)からできた」というわけです。
ただし、彼の言う「無」とは、われわれが考えがちな、宇宙空間に物質が何もない状態という意味の無ではありません。「時間も空間もエネルギーもない状態」のことです。その、宇宙創生前のまったくの無の状態から、量子重力理論という考え方を使えば、ある有限の大きさを持った宇宙がポッと生まれるというのです。
ドゴン族に伝わる民話
無から宇宙ができたという考え方は、世界の民話の中にも見られます。サハラ砂漠に住んでいるドゴン族という民族の持つ民話も、そのひとつです。
以前、NHKが『アインシュタインロマン』という番組を制作し、ドゴン族にインタビューに行ったときのことですが、インタビュアーが長老に「宇宙はどうやってできたのですか」と聞くと、長老は滔々(とうとう)と「宇宙は無から始まった。ポコンと生まれたのだ。その宇宙は急激にふくれていまのような宇宙になった」といった話をしていました。それに対してインタビュアーが、「そういう話は、アインシュタインさんという人の理論にあるのですが」と返すと、長老は「では、われわれの話を聞いたのだろう」と答えていました。
たしかに神話や民話では、宇宙創生は無限の連鎖になることが多いですから、無からできるというのも至極当然のことなのかもしれません。
しかし、われわれ物理学者が「宇宙は無からできる」と言うと、当然、「おまえはエネルギー保存則を知っているのか」と問われることになります。もちろんビレンケンも、きちんと物理法則にもとづいたかたちで「無からの宇宙創生」が可能だという理論を展開しているのです。
彼は、この「無からの宇宙創生」を、ミクロの世界を支配している量子論の法則にもとづいて考えました。
ここで「トンネル効果」が登場!
読者のみなさんの多くは、江崎玲於奈先生が1973年にノーベル賞を受賞したことを知っていると思います。受賞の理由は、「トンネル効果」の発見でした。トンネル効果とは、電子が本来は通過することができないはずのところを、ある確率で通過することができるという現象です。
図「トンネル効果による無からの宇宙創生」を見てください。
この図で原点(“無”の状態)の場所にボールがあり、その隣に小さな山があるとすると、通常、ボールは山に阻まれて右側に行くことはできないため、永遠に原点でじっとしていると考えられます。ところが、量子論に従うと、ボールは同じ場所でじっと静止していることはありません。必ずこの場でゆらいでいます。振動をしているのです。原点は“無”の状態ですからボールはエネルギーも持たない点のはずですが、量子論では点にもゆらぎがあるのです。とは言っても、それは小さな振動であり、右側の山を乗り越えるようなことはありません。
しかし、量子論には「トンネル効果」という現象があって、ボールがあたかも自分で山の中にトンネルを掘ったかのように、山の向こう側(点L)にポッと現れることがあるのです。それはとても小さな確率ではありますが、そういうことが起こりえるのです。そして、もしトンネル効果によっていったん山の右側に現れれば、ボールはそこから斜面を急激に転げ落ちていきます。
ビレンケンは、これと同じことを宇宙に当てはめて考えたのです。
図「トンネル効果による無からの宇宙創生」で、縦軸はボールの大きさを決めるポテンシャルエネルギーとします。横軸は宇宙の大きさです。つまり、原点は宇宙の大きさもエネルギーもゼロ、“無”の状態です。それがトンネル効果によって、非常に小さいながらもある確率で、ポッと山を越すようにして、限りなくゼロに近いものの有限の大きさを持ってLに現れるのです。現れてしまえば、あとは斜面を転げ落ちるように、宇宙はどんどん大きくなっていくというのです。
なお、ここではあまり詳しく説明できませんが、トンネル効果によって宇宙が現れるまでは数学的には「虚数」の時間で表されます。非常に小さいながらも宇宙が有限の大きさを持って現れてからは、私たちが現在使っているのと同様の実時間で表されます。
少し荒っぽい説明ですが、これがビレンケンの理論の概要です。
このように、量子論で考えるならば宇宙は「無から創る」ことが可能であり、実は宇宙が急激に膨張することが、トンネル効果の説明で示した坂道を転げ落ちることに対応しているのです。さきほどインフレーションとはポテンシャルエネルギーが落下していくようなものだと話しましたが、まさに坂道を転げ落ちているわけです。「宇宙は膨張しているのに落下しているとはどういうことだ?」と思われるかもしれませんが、アインシュタイン方程式から見ると、膨張とは、まさにポテンシャルの坂を落下するような状態と思っていただいてよいのです。
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さらに「インフレーション宇宙論」シリーズの連載記事では、宇宙物理学の最前線を紹介していく。