科学技術が進化しても、宗教はなくならない理由 神に人間が服従するのは理不尽な幻想なのか

科学技術が進化しても、宗教はなくならない理由 文化・歴史

科学技術が進化しても、宗教はなくならない理由 神に人間が服従するのは理不尽な幻想なのか(東洋経済ONLINE 2023/01/19 9:00)

岡本裕一朗 玉川大学 名誉教授

自分は無宗教で、信仰はない、と思っている日本人は多いかもしれないが、現在の日本では宗教2世問題など、宗教によって救われるどころか苦しんでいる人も数多くいることが浮き彫りになっている。

科学技術が進化しても、宗教はなくなるどころか、我々の世界に深く入り込んでいる。

「世界最高の知の巨人たちが考えた思考の型が1フレーズですっきりわかる」をコンセプトに執筆された『哲学100の基本』を上梓した著者が、なぜ宗教はなくならないのか、という根源的な問いについて、哲学者がどう考えてきたか、また信じるとは何か、という視点を交えて語る。

およそ100年前には、科学技術の発展によって、宗教はやがて消滅するだろう、と考えられていました。

ところが、現在では、宗教の力は衰えるどころか、世界の各所でいっそう荒々しい力を発揮しています。今日、宗教のリバイバルを語る哲学者も、少なくありません。この理由は、いったいどこにあるのでしょうか。

もちろん、宗教といっても多様なものがあり、同じ宗教でも地域によって状況は異なります。

そのため、一概に決めつけることはできませんが、宗教という現象が消滅してしまうことはなさそうです。その根拠を探るために、宗教の基本にある「信じる」という態度にさかのぼって、考え直してみましょう。

「信じる」とはどういうことか

あらためて注意するまでもありませんが、英語で「信じる」を意味する言葉(believe)は、訳すとき場面に応じて変化します。たとえば、宗教の場面では「信仰」と言いますが、政治や道徳のような実践的な問題では、「信念」となります。「信念にもとづく行動」といえば、崇高な響きをもつかもしれません。

しかし、そもそもこの言葉は、特定の分野だけにかかわるわけではありません。人間活動のどんな領域にも、「信じる」ことが働いているからです。そのときには、短く「信」と呼ぶことが一般的です。

宗教に対して、しばしば批判されるのは、それが科学的に論証されない思惑だと見なされる点です。宗教で神について信じていても、はたして「神が存在するのか?」論証できないと言われつづけてきたのです。

逆に、「神が存在する」を論証したなどと言おうものなら、オカルト的な心霊主義と見なされてしまいます。こうして、宗教とは、科学的に証明できないものを、いわば迷信のように信じることだとされるのです。

「信じる」ことは論証されていなくても、きわめて重要

しかし、こうした言い方は、注意しなくてはなりません。「信じる」ことは論証されていなくても、きわめて重要だからです。たとえば、オーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタインは、亡くなる直前まで書いていた『確実性の問題』のなかで、次のように述べています。

私たちは子供のときさまざまな事実を学び、たとえば、どの人間にも脳があるということを学び、そしてそれらの諸事実を信じてきた。私は、オーストラリア大陸があり、その形はかくかくであることを信じている。また、私には祖父母があり、私の両親だと言っている人が私の本当の両親であるということを信じてきた。こうした信念を決して言葉に表したり、それが事実であるなどという考えを抱いたことなどないとしてもいいのだ。(『確実性の問題』)

こうした「信じること」の対極に立つのが、「疑う」という態度です。

近代哲学の創始者デカルトは、真実を手に入れるために、すべてを徹底的に疑うという方法的懐疑を遂行しました。そのために、彼は、他人から教えられた知識や、感覚を通して受け取った知識、数学などの理性的な知識も、いったんはすべて疑うことにしたのです。

ところが、ヴィトゲンシュタインは、疑うことができるためには、まず学ぶことが必要であり、そのためにはさらに信じることが前提される、と考えています。つまり、デカルトのように疑うためには、あらかじめ信じていることが必要なのです。

すべてを疑おうとするものは、疑うところまでたどりつくこともないだろう。疑いのゲーム自身、すでに確実性を前提しているのだ。疑いえないものに支えられてこそ、疑いは成立する。(同書)

ここで「疑いえない」と言われていることを、直ちに宗教と結びつけることはできませんが、宗教の基本的な態度である「信じること」が人間にとって根源的であることは理解できると思います。そのため、「信じること」がなくなれば、「知ること」そのものが成立しなくなるのです。「産湯とともに赤子を流す」という諺がありますが、「信じること」を排除すれば、同じことになりそうです。

宗教は人間の本質であるか?

今度は、「信じる」という態度から、宗教という現象へ向かうことにしましょう。そもそもどうして人間は、宗教を生み出したのでしょうか。

19世紀に『キリスト教の本質』を書いたフォイエルバッハによれば、キリスト教で信仰されている神は、実は人間自身に他なりません。つまり、人間が宗教において神の本質と見なすものは、人間自身の理想化されたものなのです。

たとえば、「神は全知全能である」と言われたりしますが、この「全知全能」が人間の理想の投影であるのは、理解するのにそれほど難しくないでしょう。こうしてフォイエルバッハは「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った」という有名なテーゼを語ることになります。

このとき、宗教を説明するため、「疎外」という観点が導入されます。その意味は、「自分自身から疎遠になること」なのですが、人間と神の関係において、奇妙なことが起こります。人間が自分自身の本質を神へと対象化するとき、神は豊かで強大化するのに対して、人間は貧困化し、小さなものになっていくのです。

こうした疎外された関係が、人間と神のなかにでき上がってきます。

宗教では、人間は無力で、取るに足りないものとなるのですが、逆に神の方は全知全能で、何でもできる強大な能力をもつことになります。人間が神を作ったにもかかわらず、その神にひれ伏し、服従するという逆説が生まれてしまいます。

人間と神の関係が逆転する現象は、キリスト教に限りません。多くの宗教では、「神」とされるものが、人間を超えた強大な力をもつからです。ギリシアの神々、ユダヤ教やイスラム教の唯一の神なども、人間を超えた絶対的な力をもち、人間を支配すると考えられています。しかしながら、そうした神を作ったのは、人間に他ならないのです。

宗教は悲惨な人間に必要なアヘンなのか?

人間が神を作ったのに、それに服従するとすれば、何とも理不尽な幻想のように見えます。だとすれば、人間が目を覚ませば、宗教は消えてなくなりそうに思えます。

ところが、フォイエルバッハが「キリスト教の本質」を暴露した後でも、宗教の力は衰えません。どうしてでしょうか?

その理由は宗教という幻想を必要とする人間が、多くいるからです。フォイエルバッハの主張を受けて、マルクスは次のように語っています。

宗教という悲惨は、現実の悲惨を表現するものであると同時に、現実の悲惨に抗議するものでもあるのだ。宗教は圧迫された生きものの溜め息であり、無情な世界における心情であり、精神なき状態の精神なのである。宗教は民衆の阿片なのだ。(『ヘーゲル法哲学批判序説』)

こう述べた後、マルクスは「民衆に幻想の幸福を与える宗教を廃棄することは、彼らに現実の幸福を与えるよう要求することだ」とつづけています。ポイントは、「宗教はアヘンだから、廃止しよう」というわけではありません。

しばしば誤解されますが、「宗教はアヘンだから、使うのをやめよう!」と主張するのではありません。むしろ、アヘンを使わざるをえない=宗教を信じる現実の状況こそが、問題なのです。

というのも、宗教の幻想を払いのけよと叫んでも、宗教の幻想を必要とする人々がいれば、ほとんど効果がないからです。したがって、何よりもまず、現実の悲惨な状況を変えることが必要になるわけです。これは、薬物依存症の場合も同じでしょう。

しかしながら、人間にとって、現実の悲惨な状況を変えるのは、簡単ではありません。それに、マルクスのように悲惨な状況が社会的なものだけとは限りません。パスカルによれば、人間は死に直面する死刑囚と同じ条件に晒されています。

とすれば、人間が悲惨な状況から逃れることはなさそうです。今まで宗教を信じなかった人が、死に直面したとき神を求めることはしばしば起こります。だとすれば、宗教が消滅しそうもないのは、言わずもがなと言うべきかもしれません。

岡本 裕一朗(おかもと・ゆういちろう)
玉川大学 名誉教授
1954年福岡県生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。九州大学助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋の近現代哲学を専門とするが興味関心は幅広く、哲学とテクノロジーの領域横断的な研究をしている。著書『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)は、21世紀に至る現代の哲学者の思考をまとめあげベストセラーとなった。ほかの著書に『フランス現代思想史』(中公新書)、『12歳からの現代思想』(ちくま新書)、『モノ・サピエンス』(光文社新書)、『ヘーゲルと現代思想の臨界』(ナカニシヤ出版)など多数。