リーダーに求める資質・・貞観政要

ひまわり 文化・歴史

中国史上最も安定した治世を築いた李世民は、どのような政治を心掛けたのか、家臣との問答を記録した「貞観政要」に集大成されています。昔から帝王学の教科書として国のトップに、現在ではビジネス界のリーダーに多く読まれています。

李世民
唐(618年~907年)の第2代皇帝・李世民(598年~649年、廟号:太宗)は、626年に即位し、翌627年に貞観に改元しました。隋末の内乱を終息させて国内を統一し、対外的には突厥や西域諸国などの周辺民族を服従させ、中国史上最も安定した治世を築きました。その期間は貞観の治(627年~649年)と呼ばれています。

貞観政要
李世民と彼を補佐した名臣たちとの間で交わされた政治問答をもとに、後の唐の歴史家、呉競(670年~749年)が編纂したのが「貞観政要」です。その後の皇帝や、日本では鎌倉時代の北条政子、江戸時代の徳川家康、そして明治天皇が愛読したと言われています。

要約・抜粋

貞観政要には、李世民が権力を維持するために、創業と守成いずれが難しいか、独善に陥らず、耳の痛い諫言を聞き、民衆の生活を忘れず、武力行使をできるだけ避けた、などが記載されています。中でも、君主の条件として、「わが身を正すこと」と「臣下の諫言をよく聞くこと」、この二点がもっとも強調されています。

君主たる者は

貞観初、太宗謂侍臣日、為君之道、必須先存百姓。
若損百姓以奉其身、猶割脛以啖腹、腹飽而身斃。
若安天下、必須先正其身。未有身正而影曲、上理而下乱者。
朕毎思。傷其身者不在外物。皆由嗜欲以成其禍。

貞観の初め、太宗、侍臣に謂いて曰く、「君たるの道は必ずすべからく先ず百姓を存すべし。もし百姓を損じてもってその身に奉ずれば、なお脛(はぎ)を割きてもって腹に啖(くら)わすがごとし。腹飽きて身斃(たお)る。もし天下を安んぜんとせば、必ずすべからく先ずその身を正すべし。いまだ身正しくして影曲がり、上理(おさ)まりて下乱るる者はあらず。朕毎(つね)に思う。その身を傷(やぶ)る者は、外物に在らず。みな嗜欲(しよく)に由りて、もってその禍を成す。

貞観初年のこと、太宗が側近の者にこう語った。
君主たる者は、なりよりもまず人民の生活の安定を心がけなければならない。人民を搾取して贅沢な生活にふけるのは、あたかも自分の足の肉を切り取って食らうようなもので、満腹したときには体のほうがまいってしまう。天下の安泰を願うなら、まず、おのれの姿勢を正す必要がある。いまだかつて、体はまっすぐ立っているのに影が曲がって映り、君主が立派な政治をとっているのに人民がでたらめであったという話は聞かない。わたしはいつもこう考えている。身の破滅を招くのは、ほかでもない、その者自身の欲望が原因なのだ。・・」

まずは、国民の生活の安定を願うこと、自分自身を律すること。

名君と暗君のちがい

貞観二年、太宗問魏徴日、何謂為明君暗君。
徴日、君之所以明者、兼聴也。其所以暗者、偏信也。

貞観二年、太宗、魏徴に問いて曰く、「何をか謂(い)いて明君、暗君となす」。
徴日く、「君の明らかなる所以の者は、兼聴すればなり。その暗き所以の者は、偏信すればなり。・・」

貞観二年、太宗が魏微に尋ねた。「明君と暗君はどこが違うのか」
魏微が答えるには、「明君の明君たるゆえんは、広く臣下の意見に耳を傾けるところにあります。また、暗君の暗君たるゆえんは、お気に入りの臣下の言うことしか信じないところにあります。・・」

お気に入りに囲まれた取りまき政治は危険です。

知りて寝默するなかれ

貞観三年、太宗謂侍臣日、中書門下機要之司。
擢才而居、委任実重。詔勅如有不穏便、皆須執論。
比来惟覚阿旨順情。唯唯苟過、遂無一言諌諍者。
豈是道理。若惟署詔勅行文書而己、人誰不堪。
何煩簡択以相委付。自今詔勅疑有不穏便、必須執言。
無得妄有畏懼、知而寝黙。

貞観三年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、「中書、門下は、機要の司なり。才を擢(ぬき)んでて居らしめ、委任実(まこと)に重し。詔勅もし穏便ならざるあらば、みなすべからく執論すべし。比来(このごろ)、ただ旨に阿(おもね)り情に順(したが)うを覚ゆ。唯唯(いい)として苟過(こうか)し、遂に一言の諌争する者なし。あにこれ道理ならんや。もしただ詔勅に署し、文書を行うのみならば、人誰か堪へざらん。なんぞ簡択してもってあい委付するを煩わさんや。今より詔勅に穏便ならざるあるを疑わば、必ずすべからく執言すべし。妄(みだ)りに畏懼(いく)することあり、知りて寝黙するを得ることなかれ。」

貞観3年、太宗は側近にこう語った。
「中書省と門下省は政策遂行の中心機関である。だから、お前たちのような才能のある人間を登用してその地位にすえている。お前たちの責任は実に重いものである。私の下す勅命に、もし適切を欠く点があれば、遠慮なく意見を申し述べよ。近ごろお前たちの態度は私におもねり、ただ従うだけになっているのではないか。指示したことを淡々と受け入れるばかりで、いっこうに諫言してくれる者がいない。たんに私の下した詔勅に署名し、配下に文書を流すだけならば誰でもできる。わざわざ人材を選りすぐってその地位につける必要はない。今後、私の詔勅に適切を欠く点があれば、遠慮なく意見を申し述べよ。私に叱責されることを恐れて、知っていながら口を閉ざすというようなことのないように。

要するに、君主の命令といえども、間違ったところがあれば黙っていないで指摘せよ。忖度などするな、ということです。

君は舟なり、人は水なり

貞観六年、太宗謂侍臣曰、看古之帝王、有興有衰猶朝之有暮。
皆為蔽其耳目、不知時政得失。忠正者不言、邪諂者曰進。
既不見過、所以至於滅亡。朕既在九重、不能尽見天下事。
故在之郷等、以為朕之耳目。莫以天下無事四海安寧、便不在意。
可愛非君、可畏非民。天子者、有道則人推而為主、無道 則人棄而不用。誠可畏也。
魏厳対曰、自古失国之主、皆為居安忘危、処理忘乱。所以不能長久。
今陛下富有四海、内外清晏、能留心理道、常臨深履薄、国家暦数、自然霊長。
臣又聞、古語云、君舟也、入水也。水能載舟、亦能履 舟。
陛下以為可畏。誠如聖旨。

貞観六年、太宗、侍臣に謂いて曰く、「古の帝王を看るに、興るあり衰えるあること、なお朝の暮あるがごとし。皆その耳目を蔽(おお)うが為に、時政の得失を知らず。忠正なる者は言わず、邪諂(じゃてん)なる者は日に進む。すでに過ちを見ず、滅亡に至る所以なり。朕すでに九重に在りて、尽(ことごと)く天下の事を見る能わず。故にこれを卿等(けいら)に布(し)き、もって朕の耳目となす。天下無事、四海安寧なるをもって、すなわち意を存せざるなかれ。愛すべきは君に非ずや。畏るべきは民に非ずや。天子は道あれば即ち人推して主となし、道なければ即ち人棄てて用いず。誠に畏るべきなり」。
魏徴対えて曰く、「古より国を失う主は、みな安きに居りて危うきを忘れ、理に処りて乱を忘るるを為す。長久なること能わざる所以なり。今、陛下は富、四海を有(たも)ち、内外清晏(せいあん)なるも、よく心を理道に留め、常に深きに臨み薄きを履(ふ)まば、国家の暦数、自然に霊長ならん。臣また聞く、古語に云う、『君は舟なり、人は水なり。水はよく舟を載せ、またよく舟を覆す』と。陛下はもって畏るべきとなず。誠に聖旨の如し。」

貞観六年、太宗が側近の者に語った。
昔の帝王の治世を調べてみると、最初は日の出の勢いにあった者でも、朝のあとに日暮れがくるように、きまって衰亡の道をたどっている。その原因は、臣下に耳目をふさがれて、政治の実態を知ることができなくなるからだ。忠臣が口を閉ざし、へつらい者が幅をきかせ、しかも、君主はみずからの過ちに気づかない。これが滅亡に至る原因である。わたしはすでに奥深い宮殿にいるので、直接この目で政治の実態を確かめることができない。それゆえ、お前たちにわたしの耳となり、目となってもらっている。今は天下が平和に治まり、四海が静かだからといって、ここで気持をゆるめてはならない。まことに、『君主は人民に愛される存在でなければならない。そのためには人民の意向を尊重してわが身を慎む必要がある』。天子が道に則った政治を行なえば、人民は推戴して明主と仰ぐが、道にはずれた政治を行なえば、そんな天子など捨てて顧みない。よくよく心してかからなければならぬ。」
魏徴が答えた。
「昔から国を滅ぼした君主は、いずれも、安きに居りて危うきを忘れ、治に居て乱を忘れておりました。長く国を維持できなかった理由はこれであります。幸い陛下におかれましては、あり余る富を有し、国中が平和に治まりながら、なおも天下の政道に心を砕かれ、深淵に臨み薄氷を踏むようなお気持で、いやが上にも慎重を期しておられる。これなら、わが国の前途は洋々たるものです。古人も、『君は舟なり、人は水なり。水はよく舟を載せ、またよく舟を覆す』と語っています。陛下は、畏るべきは人民の意向だと言われましたが、まことに仰せのとおりでございます。

「君は舟なり、人は水なり」は、『荀子』王制篇にある、「君は舟なり、庶人は水なり、水は即ち舟を載せ、水は即ち舟を覆す」の言葉です。君主の座は、人民の出方次第で安定もするし、転覆もする、という意味です。
では、為政者が人民の信頼をかちとるために何をすればよいのか。『荀子』は、つぎの三項目をあげています。

 一、公平な政治、人民のための政治を心がける。
 一、社会の規範を尊重し、すぐれた人物に敬意をはらう。
 一、賢者を登用し、有能な人物に仕事を任せる。

「忠臣が口を閉ざし、へつらい者が幅をきかせ、しかも、君主はみずからの過ちに気づかない。」いつの世も全く同じです。

徳義をもってあい輔くべし

貞観四年、房玄齢奏言、今閲武庫、甲仗勝隋日遠矣。
太宗日、飭兵備寇、雖是要事、然朕唯欲卿等存心理道、務尽忠貞、使百姓安楽。
便是朕之甲仗。隋煬帝豈為甲仗不足、以至滅亡。
正由仁義不修而群下怨叛故也。 宜識此心、常以徳義相輔。

貞観四年、房玄齢奏して言わく、「今、武庫を閲するに、甲仗(こうじょう)、隋の日に勝ること遠し。」
太宗曰く、「兵を飭(おさ)めて冦(あだ)に備うるは、これ要事なりといえども、然れども、朕はただ卿等が心を理道に存し、務めて忠貞を尽くし、百姓をして安楽ならしめんことを欲す。すなわちこれ朕の甲仗なり。隋の煬帝は、あに甲仗足らざるが為に、もって滅亡に至りしならんや。正に仁義修めずして、群下怨み叛(そむ)くに由るが故なり。宜しくこの心を識(し)り、常に徳義をもってあい輔(たす)くべし。」

貞観四年、房玄齢が奏上した。
「さきほど、兵器庫を点検しましたところ、武器が隋代と比べて格段に不足しております。」
太宗が答えた。
「たしかに兵器庫を充実させて外敵に備えるのは、ゆるがせにできないことだ。されど、今お前たちに望みたいのは、兵器庫を充実させるよりも、政治に心を注ぎ、人民の生活向上に意を用いてほしいことである。それが、とりもなおさず、わたしの武器なのだ。隋の煬帝が減んだのは、武器が足りなかったからではあるまい。みずから仁義を捨て去り、人民の怨みを買ったからである。われらは、煬帝の失敗を二度とくりかえしてはならぬ。今後は、常に徳義をもってわたしを補佐してほしい。」

隋の煬帝が滅びたのは軍備を怠ったからではない。徳義を失ったからだ。

兵は凶器なり

貞觀四年、有司上言、林邑蛮国、表疏不順。請発兵討擊之。
太宗曰、兵者凶器。不得已而用之。
故漢光武云、每一発兵、不覚頭髪為白。
自古以來、窮兵極武、未有不亡者也。
苻堅自恃兵彊、欲必吞晉室、興兵百万、一挙而亡。
隋主亦必欲取高麗、頻年勞役、人不勝怨、遂死於匹夫之手。
至如頡利、往歲数来侵我国家、部落疲於征役、遂至滅亡。
朕今見此。豈得輒即発兵。
但経歷山険、土多瘴癘。若我兵士疾疫、雖剋翦此蛮、亦何所補。
言語之間、何足介意。竟不討之。

貞観四年、有司上言すらく、「林邑は蛮国にして、表疏、順ならず。請う兵を発してこれを討撃せん」。太宗曰く、「兵は凶器なり。已(や)むを得ずしてこれを用う。故に漢の光武云う、『一たび兵を発する毎に、覚えず頭髪、白となる』と。古より以来、兵を窮め武を極めて、いまだ亡びざる者あらざるなり。苻堅自ら兵の彊(つよ)きをたのみ、必ず晋室を呑まんと欲し、兵を興すこと百万、一挙にして亡べり。隋主もまた必ず高麗を取らんと欲し、頻年(ひんねん)労役し、人、怨みに勝(た)えず。ついに匹夫の手に死せり。頡利の如きに至りては、往歳しばしば来たりてわが国家を侵し、部落、征役に疲れ、ついに滅亡に至れり。朕、今これを見る。あにたやすくすなわち兵を発するを得んや。ただ山険を経歴し、土に瘴癘(しょうれい)多し。もしわが兵士疾疫せば、この蛮を剋翦(こくせん)すといえども、またなんの補うところあらん。言語の間、なんぞ意に介するに足らんや。」

貞観四年、臣下のなかで、こう奏上する者があった。
「林邑(りんゆう。ベトナムの南東岸に、チャム族の建てたチャンパー国)は野蛮な国であります。朝貢はしてくるものの、熊度が横柄です。軍をさし向けて、討伐すべきかと心得ます。」
太宗が答えた。
兵は凶器である。万やむをえざるときに用いるものだ。後漢の光武帝も「一度軍を動員するごとに頭がまっ白になる」と語っている。古来、いたずらに兵をもてあそんだ者は、いずれも滅んでいる。たとえば、前秦の苻堅(ふけん)だ。みずからの強大をたのみ、東晋をひと呑みにしようと百万の大軍を動員して襲いかかったが、逆に敗れて、あっというまに減んだ。隋の煬帝も高句麗攻略のため、毎年のように兵を徴発したので、人民の恨みを買い、みずからも匹夫の手にかかって命を落とした。ごく最近の例では、突厥の頡利(けつり)である。近年、しばしばわが国に侵攻してきたが、そのため民力を疲弊させ、ついに減亡の道をたどった。わたしは、それをつぶさにこの目で見てきた。軽々しく兵を動員するなど、もってのほかのことだ。しかも、林邑を討つには、険阻な山々を越えねばならぬ。かの地にはまた風土病がはやっているとも聞く。遠征の将兵がそのような病に倒れれば、かりに勝利を収めたとしても、なんの益があろう。かの国の使者の口上に、いささか不穏当な表現があったとしても、捨ておけばよい。」
林邑討伐の議は沙汰やみとなった。

六正六邪

故《說苑》曰、「人臣之行、有六正六邪。行六正則榮、犯六邪則辱。
何謂六正。一曰、萌芽未動、形兆未見、昭然獨見存亡之機、得失之要、預禁乎未然之前、使主超然立乎顯榮之處、如此者、聖臣也。二曰、虛心盡意、日進善道、勉主以禮義、諭主以長策、將順其美、匡救其惡、如此者、良臣也。三曰、夙興夜寐、進賢不懈、數稱往古之行事、以厲主意、如此者、忠臣也。四曰、明察成敗、早防而救之、塞其間、絕其源、轉禍以為福、使君終以無憂、如此者、智臣也。五曰、守文奉法、任官職事、不受贈遺、辭祿讓賜、飲食節儉、如此者、貞臣也。六曰、家國昏亂、所為不諛、敢犯主之嚴顏、面言主之過失、如此者、直臣也。是謂六正。
何謂六邪。一曰、安官食祿、不務公事、與代浮沈、左右觀望、如此者、具臣也。二曰、主所言皆曰善、主所為皆曰可、隱而求主之所好而進之、以快主之耳目、偷合茍容、與主為樂、不顧其後害、如此者、諛臣也。三曰、內實險詖、外貌小謹、巧言令色、妒善嫉賢、所欲進、則明其美、隱其惡、所欲退、則明其過、匿其美、使主賞罰不當、號令不行、如此者、奸臣也。四曰、智足以飾非、辯足以行說、內離骨肉之親、外構朝廷之亂、如此者、讒臣也。五曰、專權擅勢、以輕為重、私門成黨、以富其家、擅矯主命、以自貴顯、如此者、賊臣也。六曰、諂主以佞邪、陷主於不義、朋黨比周、以蔽主明、使白黑無別、是非無間、使主惡布於境內、聞於四鄰、如此者、亡國之臣也。是謂六邪。
賢臣處六正之道、不行六邪之術、故上安而下治。生則見樂、死則見思、此人臣之術也。」

「六正六邪(りくせいりくじゃ)」は、諫臣魏徴の上疏文にある言葉ですが、魏徴のオリジナルではなく、前漢末の「説苑(ぜいえん)」から引用した句と文です。「六人の正しい臣」と「六人の邪悪な臣」、この基準に従って正しい人材登用と任官を行なえば、君主は安らかとなり、人民を治められる、と魏徴は説きます。
※ 説苑は、上古から漢代に至るまでの多くの書物から天子を戒めるに足る逸話を採録し、時の成帝(在位BC32年~BC7年)を諫めるべく上奏されました。

 六 正 (りくせい) 

聖臣・・きざしがまだ動かず、兆候もまた明確ではないのに、そこに明らかに存亡の危機を見て、それを未然に封じて、主人を、超然として尊栄の地位に立たせる。
良臣・・とらわれぬ、わだかまりなき心で、善い行いの道に精通し、主人に礼と義を勉めさせ、すぐれた計りごとを進言し、主人の美点をのばし、欠点を正しく救う。
忠臣・・朝は早く起き、夜は遅く寝て勉めに精励し、賢者の登用を進めることを怠らず、昔の立派な行いを説いて主人を励ます。
智臣・・事の成功・失敗を正確に予知し、早く危険を防いで救い、くいちがいを調整してその原因を除き、禍を転じて福として主人に心配させないようにする。
貞臣・・節度を守り、法を尊重し、高給は辞退し、賜物は人に譲り、生活は節倹を旨とする。
直臣・・国家が混乱したとき、へつらわずにあえて峻厳な主人の顔をおかし、面前でその過失を述べて諫める。

 六 邪 (りくじゃ) 

見臣・・官職に安住して高給をむさぼるだけで、公務に精励せずに世俗に無批判に順応し、ただただ周囲の情勢をうかがっている。
諛臣(ゆしん)・・主人の言うことにはみな結構ですといい、その行いはすべてご立派ですといい、密かに主人の好きなことを突き止めてこれをすすめ、見るもの聞くものすべてよい気持ちにさせ、やたら迎合して主人とともにただ楽しんで後害を考えない。
姦臣・・本心は陰険邪悪なのに外面は小心で謹厳、口が上手で一見温和、善者や賢者をねたみ嫌い、自分が推挙したい者は長所を誇張して短所を隠し、失脚させたいと思う者は短所を誇張して、長所を隠し、賞罰が当たらず、命令が実行されないようにしてしまう。
讒臣(ざんしん)・・その知恵は自分の非をごまかすに十分であり、その弁舌は自分の主張を通すに十分であり、家の中では骨肉を離間させ、朝廷ではもめごとをつくり出す。
賊臣・・権勢を思うがままにし、自分の都合のよいように基準を定め、自分中心の派閥をつくって自分を富ませ、勝手に主人の命令を曲げ、それによって自分の地位や名誉を高める。
亡国の臣・・佞邪(ねいじゃ)をもって主人にへつらい、主人を不義に陥れ、仲間同士でぐるになって主人の目をくらまし、黒白を一緒にし、是非の区別をなくし、主人の悪を国中に広め、四方の国々まで聞こえさせる。

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