ドイツはなぜ大国に成長したのか? 誕生秘話に迫る! 英雄オットー1世の物語

英雄オットー1世の物語 文化・歴史

ドイツはなぜ大国に成長したのか? 誕生秘話に迫る! 英雄オットー1世の物語(現代新書 2022.11.16)

菊池良生 明治大学名誉教授

ドイツと聞いて何が思い浮かぶだろうか? サッカー、ビール、クリスマスマーケットなど豊かな文化的側面を持つドイツは、現在までに長く複雑な歴史をたどってきた。今回はその長い歴史の発端を探ってみよう。11月新刊『ドイツ誕生』から、一部抜粋してお届けする。

ドイツ帝国の変遷

オットー大帝とは誰か? 「ドイツを作った男」である。

とはいってもぴんと来ないだろう。そもそもオットーはドイツという国はおろか、ドイツという言葉すら存在していなかった十世紀の人物である。それがなぜ「ドイツを作った男」となるのか? それをこれから説明していこう。

思えばドイツは第二次世界大戦後、ナチス・ドイツの犯した蛮行に対して何十年にもわたって謝罪を重ね、一方でヨーロッパ連合(EU)の拡充に邁進してきた。その結果、いまやドイツはEUの盟主におさまっている。さらに二十一世紀の現在、ヨーロッパにおいてドイツ経済は一人勝ちであると言ってよい。

この現状をみれば、ドイツは第二次世界大戦後、ひたすらに反省の意を示すと同時に勢力を伸ばし続け、最終的には再び「帝国」を復活させたと捉えることができる。現在の隆盛をみると、ドイツ第四帝国が樹立されたとも表現していいかもしれない。

むろん第四というからには、それ以前にもドイツ帝国があったはずである。直近でいえば、ナチス・ドイツが第三帝国にあたる。そして第二帝国は一八七一年、プロイセンを中心にしてドイツ再統一を果たしたドイツ帝国を指す。この第二帝国は一九一八年、第一次世界大戦の敗北により崩壊した。

さらに遡ったドイツ第一帝国は、いつの時代を指すのか。それこそが九六二年に発足し一八〇六年に終焉が宣言された神聖ローマ帝国である。その神聖ローマ帝国の初代皇帝というのが、他ならぬオットー大帝なのだ。

狩猟王の次男として

だが、先にも触れたとおりオットーは十世紀の人間である。その頃はドイツというナショナルな概念は微塵も存在しなかった。それが証拠に神聖ローマ帝国という国号にはドイツが入っていない。ちなみに神聖ローマ帝国という国号が正式に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」となったのは一五一二年、皇帝マクシミリアン一世の時のことである。

そういうわけでオットーがドイツを作った男と位置づけるには、さらに歴史的な経緯を詳述する必要がある。

そもそもオットーは神聖ローマ帝国の皇帝に即位する前、東フランクの王であった。東フランク王国とは、かのカール大帝が樹立したフランク大帝国が分裂して生まれた後継部分王国のひとつである。

この東フランク王国の領域が現在のドイツ、オーストリアにほぼ重なる。それゆえ東フランクはやがてドイツ王国の源流となっていく。

東フランク王国の初代国王はカール大帝の孫ルートヴィヒ二世である。東フランクという国号は、このルートヴィヒ二世が自ら名付けたものだ。以後、東フランクは分裂と再統一をくり返す。そしてルートヴィヒ二世の曽孫にあたるルートヴィヒ四世幼童王を最後にカール大帝の血筋は消え、いわゆるカロリング朝が断絶する。

その後、カール大帝と同じフランク族の豪族コンランディ家のコンラート一世が東フランク王となるが、これも一代限りで王朝が交代する。

代わりに王となったのは、当時としては辺境(現在のドイツ東部)にいたザクセン族出身のハインリヒ一世狩猟王である。このハインリヒ一世の次男こそが、本書の主人公であるオットー一世なのである。

オットーは父の死を受け、九三六年に東フランク王に就いた。そしてそれから二十五年後の九六二年二月二日、ついにローマの聖ペテロ大寺院で教皇ヨハネス十二世の手で皇帝の戴冠を受ける。それはオットーが、東フランクという限られた領域から無辺の帝国の道を突き進んだ結果だった。

オットーが歩んだ皇帝への道

オットーの「皇帝への道程」で、東フランクは次第にアイデンティティを獲得していった。事実、オットー一世、二世、三世、ハインリヒ二世とオットー朝(ザクセン朝)と歴代皇帝の戴冠が続き、十一世紀を迎えたあたりから東フランク王国はドイツ王国と呼ばれるようになる。

つまり、ドイツという言葉が生まれたのだ。そのきっかけとなったのは、紛れもなくオットー大帝だった。その意味で、やはりオットーは「ドイツを作った男」なのである。

アーヘンでの国王戴冠が持つ意味

オットーの国王戴冠式は九三六年八月七日、マインツ大司教ヒルデベルトの式進行によりアーヘンで行われ、フランケン大公エーベルハルト、シュヴアーベン大公ヘルマン、バイエルン大公アルヌルフ、ロートリンゲン大公ギーゼルベルトと他の並みいる貴族や司教が参列した。

戴冠式の日にち、場所、参列者にはそれぞれ重要な意味があった。

まず戴冠式の八月七日は前王ハインリヒの死のわずか五週間後のことである。これは異例の速さである。東フランク国王位がまるでリウドルフィング家の世襲と決まったかのようである。むろん諸侯による国王選出というゲルマンの慣習は無視できなかった。それゆえ式を取り仕切るマインツ大司教ヒルデベルトは二〇〇〇人ほどの式の参列者に「見なさい、私は今、神によって選ばれ、またかつての偉大な支配者である前王ハインリヒにより決められ、なおかつすべての諸侯によって王と定められたオットーを紹介する」と語ったのである。かくして王国は選挙と世襲がハイブリッドした世襲選挙王政となり、そして王は大司教による塗油を受け、「同等者の間の第一人者」ではなく「神の代理人」として君臨することになったのである。

ところでこの時、オットーは普段のザクセン風のではなくフランク風の衣装をまとっていた。言うまでもなくカロリング朝との連続性を強調するためである。だからこそ戴冠式の場所はカール大帝所縁の地アーヘンでなければならなかった。

カール大帝は生前、アーヘンに宮殿教会の建設を始めた。彼の死後、その亡骸はここに納められ、教会は北部ヨーロッパ最初の大聖堂となり、「皇帝の大聖堂」と呼ばれるようになった。まさに戴冠式にふさわしい場所であった。以後、一六世紀まで三〇人の国王がここで戴冠式を行っている。

アーヘンはロートリンゲン大公領内にある。ロートリンゲンは東フランクと西フランクとの間の長年の係争地であった。今でこそ東フランクに編入されているが今後どうなるかわからない。それにオットーの戴冠式の約七週間前、西フランクではルイ四世海外王がラン(パリ遷都までのカロリング朝の首都)で即位している。またもやカロリング家の返り咲きでルイはロートリンゲン再獲得を狙っている。そうはさせるものか、とオットーは戴冠式の場所をアーヘンとしたのである。

オットーは戴冠式後の祝宴の差配をロートリンゲン大公ギーゼルベルトに命じた。これは新参者であるギーゼルベルトの力量と忠誠心を見極める意味もあった。忠誠心? そう! 忠誠心である。

ギーゼベルトだけではなく他の三人の大公も祝宴の給仕を命じられた。全体を見るのがギーゼルベルト、エーベルハルトは食事の、ヘルマンはお酒の、アルヌルフは騎兵の手配を任されたのである。これは後の宮内四官職、侍従長、司厨長、献酌侍従、主馬頭に相当する。つまり、オットーは四人の大公を第一人者オットーの同等者ではなく、王オットーの紛れもない家臣として扱ったのである。父ハインリヒの「友諠政策」は明確に破棄された。オットーのこの高圧的な態度に、こんなはずではなかった、と彼ら四人の大公の胸中に穏やかならざるものが走ったのは容易に想像がつくところである。

さて、この戴冠式に出席しなかった重要人物が二人いた。

オットーの母マティルデは九三六年七月三十一日、クヴェドリーンブルクに滞在していたという記録がある。同地はアーヘンから五〇〇キロ離れたところにある。当時のこと、一週間後の戴冠式には間に合わない。息子の晴れの舞台に母親が姿を現さない。含むところがあったとしか思えない。幾人かの年代記作者によればマティルデはオットーの弟ハインリヒを溺愛し、オットーには冷たく当たったという。それゆえ王となったオットーは母マティルデに誰はばかることなく冷たい仕打ちを行い、両者の間は冷え切ったものとなった。

オットーの弟ハインリヒもザクセンに留め置かれ戴冠式には参列していない。

オットーは戴冠式のため本領地ザクセンを暫く留守にすることになる。するとその隙を狙ってスラブ諸族が不穏な動きを見せるやもしれない。そこでオットーはザクセンのナンバーツーでもあるメルゼベルク伯ジークフリートを総督に任じ、併せて弟ハインリヒを預けた。要するに監視を命じたのである。

この時ハインリヒは十六歳、人好きのする気性なのかザクセン貴族には妙に人気があった。ところで兄オットーが王位を独り占めにするという単一相続制は東フランクではまだ緒に就いたばかりですっかりなじんだ制度ではなかった。分国をもらえぬハインリヒとその取り巻きの不満は募るばかりだ。それになんといってもオットー、ハインリヒ兄弟の母マティルデは弟ハインリヒを溺愛している。つまり、ハインリヒはオットーにとって剣呑な存在であったのだ。

菊池 良生 YOSHIO KIKUCHI
1948年生まれ。早稲田大学大学院博士課程に学ぶ。明治大学名誉教授。専攻はドイツ・オーストリア文化史。著書に『ハプスブルク家の人々』(新人物往来社)、『ハプスブルク家の光芒』(作品社)、『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書)、『ハプスブルク帝国の情報メディア革命─近代郵便制度の誕生』(集英社新書)、『超説ハプスブルク家 貴賤百態大公戯』(H&I)、『ウィーン包囲 オスマン・トルコと神聖ローマ帝国の激闘』(河出書房新社)、訳書に『ドイツ傭兵の文化史』(新評論)などがある。