格差拡大の真の問題は「人間が人間を対等に見られなくなり、富者は貧者を下等の存在とみなす」こと…経済学が苦手としてきた「必要」が、今問われる理由

格差拡大の真の問題は「人間が人間を対等に見られなくなり、富者は貧者を下等の存在とみなす」こと 社会

格差拡大の真の問題は「人間が人間を対等に見られなくなり、富者は貧者を下等の存在とみなす」こと…経済学が苦手としてきた「必要」が、今問われる理由(現代新書 2026.01.22)

中村 隆之 経済学者

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1月22日発売の講談社現代新書の新刊『今こそ経済学を問い直す』(中村隆之 著)では、気鋭の経済思想家が私たちを支配してきた価値観を疑い、成長なき時代の「大問題」に挑みます。

本記事では、〈「GDPの数字」だけを追いかける日本人が、知らないうちに失っている「本当の豊かさ」…「お金があれば何でも解決できる」という大きな間違い〉に引き続き、「必要」を正面から取り上げるフェミニスト経済学などについて詳しくみていきます。

※本記事は中村隆之『今こそ経済学を問い直す』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。

「必要」を正面から取り上げるフェミニスト経済学

通常の経済学はお金であらわされる価値を実現しようとし、それ以外にほんとうの価値があるといった発想はない。お金であらわされる価値以外を見ようとするのは、制度派経済学のような異端派、つまり経済学全体からすればごく一部だけである。本書が注目する「必要」概念が登場しうるのは、この狭い領域でしかない。けれども、「必要」を正面から取り上げる経済学も──もちろん通常の経済学の外という意味で異端派の一つに属するのだろうが──存在する。

それは、女性の「必要」の声に耳を傾けるフェミニスト経済学である(3)。フェミニスト経済学は、家事・子育て・ケアといった人間を支える重要な活動(まさしく素材的価値がある活動)がアンペイドワーク(所得を伴わない仕事)とされて、ペイドワーク(所得を伴う仕事)より軽んじられていること、その負担が主に女性に偏っていることに着目する。女性たちが家事・子育て・ケアを担うとしても、その活動の意義を正当に評価してほしい、あるいは、家事・子育て・ケアの負担を強いられ、本来したい別の活動ができなくなるようなことはなくしてほしい。フェミニスト経済学は、この女性たちの切実な「必要」に応えようとする。

ただ、これはとても難しい。女性軽視と負担の偏りは、男女間の権力関係──家庭内でも、職場でも、経済活動内でも作用する──が複合作用することで生じているからである。例えば、女性には補助的で待遇の低い仕事の方が向いていると考える職場がある。そして実際、女性の待遇が低ければ、家庭において男性は自分が主たる稼ぎ手となり、女性に家事・子育て・ケアを任せる方がよいという考えになる。女性が家庭の負担によって十分に能力を発揮できなかったり、あるいは途中で退職してしまったりするのであれば、やはり職場の男性は補助的で待遇の低い仕事を割り当てようとする。問題は、特定の誰かが悪いことをしているから起こっているのではなく、複合的な連関のなかで(特定の悪者がいなくても)起きてしまう。

本書は、こうした複合的な連関のなかで起こる問題を構造的不正義と捉え、そのなかで発せられる切実な「必要」の声に耳を傾けるための方法を追求する(『今こそ経済学を問い直す』第五章~第六章)。フェミニスト経済学のように女性の立場に特化しているわけではないが、その問題関心は共有している。

「必要」に目を向ける平等研究

経済学において「必要」──社会的観点から満たされるべきと考えられる何か──がどのように位置づけられているかを見てきた。通常の経済学には「必要」概念が想定する社会的観点が出てくる余地がないが、制度派経済学のように金銭的価値の次元を相対化するならば、考慮される余地が生まれる。フェミニスト経済学は、制度派と関心を同じくし、女性の「必要」の声を聴こうとするものであった。

経済学のなかで「必要」が考慮されるのは、平等(あるいは格差、分配をどうすべきか)に注目するときである。ただし、「平等」のような規範(~すべき)を含む概念は、通常の経済学のロジックにはない。通常の経済学は、誰かが得をし、誰かが損をするような状態の変化──例えば、富者からより多くの税金をとり、貧者の生活改善のために支出することによる社会状態の変化──に対して、中立でなければならないと考える。言い換えると、平等にした方がよいという主張は、あなたの価値観に基づく「主観的」なものであり、すべての人を説得できる「客観的」な論拠はない、というのが通常の経済学の立場である。

とはいえ、現実の格差拡大は大きな問題であると感じられるし、だからこそ平等に関する研究は多数ある。不平等を問題だとする理由を突き詰めて考えると、貧富の格差があまりに大きいと、人間が人間を対等の存在と見られなくなる──富者は貧者を下等の存在とみなす──からというのが根底にあるだろう。どの程度の不平等が「正しい」かを普遍的な論理を通じて探究するジョン・ロールズ『正義論』のような方向性もあれば、どれだけ分配し、どれだけ権利を保障すれば対等な存在とみなすことができるのか──絶対水準で保障すればよいのか、相対水準で差を小さく収めるべきなのか──を議論するという方向性もある。

貧しい人の「必要」を視野に入れ、再分配政策によってその「必要」に応えようとする姿勢に私も共感する。しかし、貧しい人の「必要」は、財・サービスだけによって充足されるものではない、ということも重要であろうと考える。

例えば、ベーシック・インカム(無条件の一律現金給付)をもらったとしても、社会のなかに自分が認められている場所がなければ(たんにお金を渡されて生かされているだけと思うならば)、貧しい人の「必要」は真の意味で満たされたとは言えないだろう。つまり、規範としての平等論は、財・サービスの再分配によって不平等を縮小することそのものが目的なのではなく、再分配を一つの手段として「自分たちが共通のプロジェクトに参加し、互いに依存しながら責任を分かち合っていることを実感し、その感覚と確信を持(4)」てるようにすることが目的なのである。

貧しい人の「必要」の声は、欠乏する財・サービスが欲しいということだけではなく、対等に参加する市民のメンバーとして認められたいという欲求を含む。既存の平等についての研究が、この視点──いわば貧しい人の「承認」──を欠いているわけではない。例えば、フランクフルト学派の哲学者・社会学者であるアクセル・ホネットの承認論は、財・サービスにおける平等よりも、他者との関係性のあり方こそが重要と考えている(5)。私は、この考え方に沿って平等論を進めることを支持する。

この方向性のなかで、本書がどこに力点を置くかと言えば、「必要」の声を「聴く」という姿勢にである。貧しい人は、対等なメンバーとして認められたいと訴えている。それはすなわち、声を上げれば聴いてもらえる関係でありたいということである。もちろんお題目として「聴く」だけでは意味がなく、そこから「必要」に応えていく実質的な対話がはじまらなければならない。だから、本書では、「必要」の声を「聴く」ための、つまり声が届くようにするための、新たな仕組みを提起するつもりである。

さらに〈経済学がずっと避けてきた「大問題」…生産性だけで人を評価する社会が失った「あまりに大切な視点」〉の記事では、経済学が無視し続けてきた「必要」という概念について詳しくみていきます。

本記事の抜粋元・中村隆之『今こそ経済学を問い直す』では、経済成長を追求し、市場経済を駆動させるだけでは見えてこない、ほんとうに求められていること=「必要」に注目をし、経済思想史を捉えなおします。成長なき時代の豊かさを考えるための必読書です。ぜひお手に取ってみてください。

3 フェミニスト経済学については、長田華子他編『フェミニスト経済学──経済社会をジェンダーでとらえる』(有斐閣、二〇二三年)を参照。
4 マイケル・サンデルがトマ・ピケティとの対話のなかで述べた言葉。サンデル゠ピケティ『平等について、いま話したいこと』岡本麻左子訳、早川書房、二〇二五年、一〇五ページ。
5 ホネットは、フランクフルト学派の第三世代である(テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーが第一世代、ユルゲン・ハーバーマスが第二世代の代表者)。「再分配か、承認か」という議論の立て方をしたナンシー・フレイザー(再分配と承認は別の論点であり、再分配には独自の意義があるという主張)に対し、ホネットは承認こそが重要であり、再分配はそのなかの手段にすぎないという立場で応戦した。この論争に決着がついたわけではないが、「承認」の意味、「再分配」の意味がより深く検討されることになったので、意義のある論争であったと言える。(フレイザー゠ホネット『再配分か承認か?──政治・哲学論争』加藤泰史監訳、法政大学出版局、二〇一二年、英語版とドイツ語の原書は二〇〇三年)