日露戦争由来の「必勝しゃもじ」をウクライナに贈る岸田首相の無神経と広島人の「怒り」

岸田事務所にある「必勝しゃもじ」の前でインタビューに応じる首相=2020年11月4日、東京・永田町 政治・経済

日露戦争由来の「必勝しゃもじ」をウクライナに贈る岸田首相の無神経と広島人の「怒り」 悲惨な歴史の起点を踏まえ平和外交をすることこそ、被爆地政治家の仕事だ(論座 2023年04月02日)

悲惨な歴史の起点を踏まえ平和外交をすることこそ、被爆地政治家の仕事だ

郷原信郎 郷原総合コンプライアンス法律事務所 代表弁護士

日露戦争由来の縁起物

日本時間の3月22日、岸田首相が突然ウクライナを訪問、首都キーウまで行ってゼレンスキー大統領とも会談した。その際のお土産に、広島の地元名産品の一つである宮島の「必勝しゃもじ」を贈呈したことについて、国会でも議論が行われた。

広島人にとって、この「必勝しゃもじ」が一番多く使われるのは、高校野球などで広島のチームの応援をするときだ。「飯を取る」ために使うものなので、「敵を召し取る」という意味を込めて、しゃもじを両手に持って、カチカチと打ち鳴らして応援する「応援グッズ」である。店などに商売繁盛などを願う「縁起物」として飾ることもある。

そういう高校野球などでの応援グッズのようなものを、ロシアと戦争を行っている当事国のウクライナに贈呈したことには非常に違和感があった。

戦争と高校野球などのスポーツの応援とでは全然意味合いが違うではないか、というのが最初の率直な印象だった。3月24日、そういう最初の印象を《「応援グッズ」を戦争の当事者であるウクライナに「贈呈」して何の意味があるのか。》とツイートしたところ、

広島出身者として一言。
しゃもじ22本を打ち合わせて応援するのは広島の伝統ですが、スポーツではなく戦争を応援する為に使われるのは屈辱です。また、しゃもじのメッカであり神聖な宮島を穢す事にも。

など、私と同様の受け止め方のツイートの反応が多かったが、一方で、以下のようなツイートもあった。

必勝とは文字どおり必ず勝て、という意味で、これは「日本がウクライナを支持し勝利を願う」という強いメッセージです。必勝しゃもじの由来は日露戦争ですから、尚更です。これをさりげなく縁起物を装ってウクライナに渡すというのは、この上なく見事な外交だと思います。

私は、正直なところ、「必勝しゃもじ」の由来が日露戦争だということは知らなかった。改めて調べてみると、確かに日露戦争の時に、出征する兵士たちが厳島神社にこのしゃもじを奉納し、日露戦争での日本の戦勝で、敵を召し取る「必勝しゃもじ」ということになった、という由来があることが分かった。

3月27日の参院本会議では、日本維新の会の音喜多駿議員が、「このしゃもじには飯を取る、すなわち敵を召し取るという意味が込められており、日露戦争にも由来するものであると言われている。ウクライナに対して、ロシアという敵を召し取る、という強いメッセージを込めているのか。総理の贈答品に込めた率直な思いをうかがう」などと質問したのに対して、岸田首相は、その意図について、

「ロシアによるウクライナ侵略に果敢に立ち向かっているゼレンスキー(大統領)およびウクライナ国民への激励」

と説明し、前記のツイートで書かれていたように、日露戦争に由来する「対ロシア戦必勝」の意味を込めたものであることを否定しなかった。

このような「必勝しゃもじ」を日露戦争と関連づける趣旨は、確実にロシア側にも伝わっているようだ。ロシアの国営タス通信は、岸田氏がウクライナ訪問時、ゼレンスキー大統領に「必勝」と書かれた広島名物のしゃもじを贈ったことを紹介し、「日露戦争時の兵士のお守り」と強調した。現地メディアはロシアへの挑発と捉えたもようで「奇妙なプレゼント」と不快感をもって伝えたとのことだ(3.24時事)。

このような岸田首相の言動は、今の日本が置かれた立場からも、日露戦争以降の広島の歴史との関係からも、「戦争」というものに対して、あまりに無神経だと言わざるを得ない。

多くの日本人にとって、広島の過去については、終戦の直前の原爆投下による甚大な被害・犠牲の印象が強烈なため、それ以前の広島が、どのように発展し、戦前の日本にとって、どういう位置づけだったのかを知る人は少ないだろう。

軍都から被爆地、そして平和都市へ

日清戦争の時代、戦争の最高指導機関である大本営が東京から広島に移され、明治天皇も滞在した。日清戦争の戦費を審議する臨時帝国議会を広島で開催するため、仮の国会議事堂も建てられた。日露戦争以降、太平洋戦争に至るまで、広島はまさに、戦争に向けての拠点である「軍都」として発展したのだ。

宇品港からは、日清・日露の戦争を始め、日中戦争、太平洋戦争で、何百万人もの出征兵士が送り出されていった。長崎への原爆投下が、当日、天候の関係で急遽小倉から変更されたものだったのに対して、広島が当初から原爆投下地とされていたのは、乗船基地であり軍の拠点だったことが大きな要因となった。広島にとって、広島市民にとって、日露戦争の「戦勝」は、「軍都」としての発展の起点であり、その結末が、原爆投下という地獄絵図だった。

日露戦争での「必勝しゃもじ」が、出征する兵士の必勝祈願の奉納に使われたという起源からすれば、それは、悲惨な戦争への道の起点だったことになる。しかし、実際には、広島市民には、そういう歴史的な由来は、あまり知られていない。単なる「縁起物」「応援グッズ」だからこそ、広島人の生活習慣に溶け込み、「必勝しゃもじ」を「応援グッズ」として、カチカチと無邪気に打ち鳴らすこともできるのだ。

「必勝しゃもじ」に、、日露戦争でロシアと戦った日本と重ね合わせ、今ロシアと戦っているウクライナの「必勝」という意味を込めるというのは、広島人の感覚とはかけ離れたものだ。

岸田首相は、「必勝しゃもじ」と併せて「宮島御砂焼による折り紙折り鶴をモチーフとしたランプ」も贈呈して「平和を祈念する思い」を伝達したとも説明している。

しかし、そもそも、戦後の平和都市広島野球などの応援での「必勝」と、戦争当事国への「必勝」の「激励」とは、全く意味が違う。それは、「相手国を打ち負かすまで戦え」ということであり、むしろ、太平洋戦争末期、「圧倒的に不利な戦況にあった日本で『一億総玉砕』を叫び『本土決戦』を唱える声」に近いものだ。それこそが、アメリカに原爆投下を決断させ、広島の被爆の惨禍を招く要因ともなった。

そういう「激励」を込めた「必勝しゃもじ」は、被爆地広島の市民の「平和を祈る心」を象徴する「折り鶴」とは凡そ相容れないものだ。二つをセットにして「お土産」にする発想は、到底理解し難い。

ロシアのウクライナ侵略についての国際世論にも様々なものがあるが、少なくとも、日本政府の立場というのは、ウクライナはロシアから一方的に侵略された、武力によって国土を侵奪された。そのロシアと戦うウクライナを全面的に支援すべきだ、というものだろう。

そのような日本政府の立場を前提にすれば、日露戦争でロシアと戦った当時の日本を今のウクライナを同様に見ることにも大きな違和感がある。

帝国主義のぶつかり合いだった日露戦争の側面

日清戦争で「朝鮮を清国から独立させよ」と主張した日本は、日露戦争では「朝鮮をロシアから独立させよ」と主張した。日露戦争中の1905年、「日韓協約」を結び、韓国統監を置いて大韓帝国を支配していく。そして、日露戦争後の1910年には、日本は大韓帝国を併合し、大韓帝国では反日独立運動が激化し、初代韓国統監に就任してその矢面に立った伊藤博文は、韓国独立運動家の安重根によって暗殺された。

日本は朝鮮半島から満蒙に向けての権益拡大を図り、ロシアと対立していた。まさに帝国主義のぶつかり合いが日露戦争に至った原因であったことは、否定しようのない歴史的事実だ。その戦争は、第1次ロシア革命が起こっていたロシアが戦争継続が困難となったため、ポーツマス講和条約締結で、一応日本の勝利という形で終戦になった。しかし、一方で、日露戦争での戦死者は約8万4千人、戦傷者は14万3千人に上る。日本にとっても、悲惨極まりない戦争だった。日本の「戦勝」は、大きな犠牲を代償にするものだった。

歌人・与謝野晶子が、日露戦争の激戦地にいる弟を思って詠んだ歌がある。

『君死にたまふことなかれ』

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。
堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを・・・

日露戦争での「戦勝」は、その後の日本に何をもたらしたか。

日露戦争後、膨大な犠牲者と戦費を支出して満州の権益を獲得したことが強調され、それが、後の日本の対外政策に大きな影響を与えていく。そして、日本海海戦で無敵のロシア艦隊を打ち破った大勝利は、日本人が「不敗神話」を信じることにつながり、日本海軍に、長く時代錯誤の「大艦巨砲主義」をはびこらせた。それが無謀極まりない日米開戦、そして、戦艦大和の特攻出撃、「神風特攻隊」の多くの若者達の自爆攻撃、そして、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下という凄惨な戦争の結末につながっていくのである。

岸田首相が「必勝しゃもじ」を持参し贈呈したのが、多くの広島市民の感覚と同様の「応援グッズ」「縁起物」という「お気楽」な感覚によるものだったとすれば、あまりに軽薄であり、戦禍に晒され、虐殺の被害にまで遭っているとされるウクライナ国民に対して失礼だ。一方、日露戦争での戦勝祈願と日本の勝利に由来することを意識し、ロシアと戦っているウクライナへ「必勝」のメッセージを伝える意図だったとすれば、その日露戦争での「戦勝」が、日本に、そして広島に、何をもたらしたのかを思えば、広島人には、到底許容し難いものではなかろうか。

広島市民に選挙で選ばれながら、広島市民とは思いを共有していない「東京出身の政治家」だからこその発想であり、あまりに無神経だ。

陸軍の中枢「宇品」をめぐる物語

岸田首相がウクライナに持参した「必勝しゃもじ」についての私の思いと「怒り」を、YouTube《郷原信郎の「日本の権力を斬る!」》で語ったところ、多くの共感のコメントが寄せられた。その中に、「広島人の思い」を共有する、次のような一文があった。

郷原さんの怒りに全面的に共感です。支那事変で静岡県富士市から召集され、宇品港から出征した私の父親。出征前の兵士たちのお世話に駆り出されたのが皆実町に住んでいた私の母親。そこで出会った両親のロマンスが生まれた私のルーツともいえる広島宇品。今回の岸田首相の軽挙妄動(アタマを割って中を覗きたい・・・)許せない!怒りが収まりません。ちなみに幸いにも帰還できた父と結婚した母は静岡県に嫁いだので被害を免れましたが、母の家族は被爆し命を失いました。「暁の宇品」・・・ゼッタイ読みます。

島根県の郷里を離れ、広島市に移り住んだ私の両親が、数年間住んだ街が皆実町だった。そして、その後広島に定住し四半世紀を過ごしたのが宇品、広島港を見わたす海辺のマンションだった。

広島の宇品港には、日露戦争の頃から、陸軍の船舶司令部があった。宇品港の司令部の周辺には兵器を生産する工場や倉庫が林立し、鉄道の線路が引かれて日々物資が行きかった。いわば、日本軍の心臓部だった。

その船舶司令部の軍人たちの苦悩を描いた、ノンフィクション作家堀川恵子氏による『暁の宇品』という秀逸な著作がある。

同書の中心に描かれる船舶司令長官が、「船舶の神」と呼ばれた田尻昌次中将だ。日本の圧倒的な「船腹量」の不足で戦争遂行能力が限定される中で、日中戦争が泥沼化し、ソ連ともノモンハンでの戦闘が引き起こされ、戦線が拡大していくことへの田尻中将の苦悩が、以下のように書かれている。

田尻の頭の中では、大陸各地で苦戦を打開するために要求される船腹量と、国内輸送の置かれた厳しい現実とがせめぎ合っていた。現在の危機的状況が続けば、戦争を継続させることも、国民生活を維持することも早晩おぼつかなくなる。

島国から軍隊を運ぶのは船しかない。軍隊が外征すれば、そこへ軍需品や糧秣を届けるのも船。もし資源を入手するために南方に進出すれば、そこに兵を送るのも、資源を運んでくるのもまた船である。一にも二にも、船が必要だ。その船が圧倒的に不足する日本にとって、勇猛な南進論も、遠くに聞こえ始めた対米英開戦論も、田尻には夢物語のように響いたことだろう。

田尻昌次は35年の軍人人生をかけて、ある決意を固める。

その「決意」とは、船舶不足を緩和するための膨大な業務改善を、陸軍中枢のみならず、厚生省、大蔵省、逓信省、鉄道省、商工省という船舶輸送に関係するすべての省に宛てての「意見具申」を行うことだった。

昭和14年7月に意見具申を行った田尻中将は、翌年3月、宇品地区で発生した火災の責任を問われ諭旨免職となって軍人人生を終えることになった。

今年5月にG7サミットが開かれるのが、その宇品の南端にある広島プリンスホテルだ。

宇品港は、戦前、多くの出征兵士を送り出した港であり、陸軍船舶司令部の司令官たちが、戦争に向かう国を憂い、苦悩しつつ、その職責を果たした地だった。そういう歴史を胸に刻み、主要国首脳に平和の尊さを説くことこそが、被爆地広島、そして、多くの歴史が刻まれた宇品に各国首脳を迎える日本の首相が果たすべき役割なのではなかろうか。

「必勝しゃもじ」をウクライナに持参し贈呈した「無神経さ」を見る限り、岸田首相に、その役割を担う意志があるとは思えない。

郷原信郎(ごうはら・のぶお) 郷原総合コンプライアンス法律事務所 代表弁護士

1955年、島根県生まれ。東京大学理学部卒。東京地検特捜部、長崎地検次席検事、法務省法務総合研究所総括研究官などを経て、2006年に弁護士登録。08年、郷原総合コンプライアンス法律事務所開設。これまで、名城大学教授、関西大学客員教授、総務省顧問、日本郵政ガバナンス検証委員会委員長、総務省年金業務監視委員会委員長などを歴任。著書に『告発の正義』『検察の正義』(ちくま新書)、『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)、『思考停止社会─「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書)など多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです