カルト規制法、日本になじまず 「政治と宗教」、冷静な議論が必要…同志社大・小原教授に聞く

小原克博・同志社大神学部教授 社会

カルト規制法、日本になじまず 「政治と宗教」、冷静な議論が必要 同志社大・小原教授に聞く【政界Web】(JIJI.COM 2022年09月23日11時00分)

安倍晋三元首相の銃撃事件を契機に、政治と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関係がクローズアップされ、議論を呼んでいる。政治家は宗教団体とどう関わるべきなのか。政治と宗教の関係や宗教倫理に詳しい同志社大学神学部の小原克博教授に聞いた。(時事通信政治部 堀内誠太)

  1. 問われる政治家のモラル
      1. 信教の自由を定めた憲法20条は、政治による宗教への介入を禁じる。旧統一教会と政治の関わりをどう見るか。
      2. 20条では「いかなる宗教団体も国から特権を受け、政治上の権力を行使してはならない」とも規定している。
      3. 宗教をめぐる法律として、「宗教法人法」がある。所管官庁から解散命令を出すことが可能とされている一方、実際の行使には極めて抑制的な運用がなされている。
      4. 野党からは解散命令を出す検討や法改正が必要との意見もある。
  2. フランスと異なる背景
      1. 反社会的な宗教団体を規制する法整備は日本にはなじまないか。
      2. フランスと日本の違いは、宗教の話題を公の場で話すことがためらわれる日本社会の空気も関係するか。
      3. 政治家の秘書が関係者であったり、選挙で応援を受けたりしたなどと指摘されている。一方、面接などで宗教に触れる質問をすることは信教の自由を侵害する。
  3. 献金規制、宗教活動の制限に
      1. 旧統一教会をめぐっては信者の生活水準よりも高額な献金が指摘される。献金の上限規制を設けるべきだとの声もある。
      2. 政治家が選挙で応援してもらう人を選ぶことは難しいとの意見もある。特定の団体とどう関わっていくべきか。
      3. 有権者が政治と宗教の議論を考えるとき、どんな点に注意すべきか。

問われる政治家のモラル

信教の自由を定めた憲法20条は、政治による宗教への介入を禁じる。旧統一教会と政治の関わりをどう見るか。

社会的に問題があるとされる団体との付き合いは、宗教団体に限った話ではない。政治家の「特権」をうまく利用しようとする団体は無数にある。政教分離の問題はもちろんあるが、政治家それぞれの職業モラルの問題が基本的な大前提としてまずある。

今回は安倍氏の事件があり、旧統一教会の名前が出てきた。しかし、統一教会を脱会した元信者の証言もこれまで多くある。関係が長年続いていることを専門家は知っているが、今まで見過ごされてきた。

20条では「いかなる宗教団体も国から特権を受け、政治上の権力を行使してはならない」とも規定している。

20条を文字通り解釈すれば、政治家が宗教団体に対して、便宜を図ってはいけないが、宗教団体が政治活動をすることを禁じているわけではない。

政治家や三権分立、法的な規制だけで民主的な社会ができるわけではない。国と個人との間でさまざまな団体が健全に働くことが必要だ。その中に宗教団体もある。

それぞれの宗教団体が理念に基づいて、より良い社会をつくっていくためにはどうすべきかを考え、政治家に提言していく。それはむしろ社会のためには必要だ。

宗教をめぐる法律として、「宗教法人法」がある。所管官庁から解散命令を出すことが可能とされている一方、実際の行使には極めて抑制的な運用がなされている。

規定に少しでも触れたら、処分していく在り方は信教の自由を著しくむしばむ。ただ、本来なら俎上に上げられるべき団体が特権で守られているのであれば、法律の理念に関わり、大問題だ。

今回は旧統一教会の名称変更の際にそういった便宜が図られたのではないかと指摘されている。団体として慎重な議論が必要となった場合は、ちゃんと宗教法人審議会などに諮り、議論すべきだ。性善説に立ち、申請があれば受けるしかないとのやり方は不透明感が付きまとう。

野党からは解散命令を出す検討や法改正が必要との意見もある。

宗教法人法は81条の解散命令の他にも、事業の停止など一歩手前の措置はあるが、抽象的な部分が多い。例えば、解散命令や事業停止に関しても、「宗教団体とは」との条文の規定を大きく逸脱した場合に命令できるが、「大きな逸脱」とはどんな場合かなど、細かな基準が法律に記されているわけではない。

それをしっかりと議論し、曖昧過ぎて基準がない場合には、法律の一部改正も視野に入れた議論が必要になる。日本でフランス型の「カルト規制法」を新たにつくるのではなく、まずは現行法の運用だ。それが不十分だと判断された場合は、法改正すべきだ。

フランスと異なる背景

反社会的な宗教団体を規制する法整備は日本にはなじまないか。

フランスの場合、実際に策定する前に議会の調査チームがつくられ、1995年に調査報告書が出されて、2001年にようやく法律ができている。

95年から01年のわずか6年に見えるかもしれないが、フランスでは1世紀に及ぶ政教分離に関する議論があり、カルト規制法ができた。やはり議論の歴史が全く違う。

日本とはそもそも宗教に対する規定や理解も異なっている。分かりやすさに飛びつきたくなるのは分かるが、それはやめた方がいい。

フランスと日本の違いは、宗教の話題を公の場で話すことがためらわれる日本社会の空気も関係するか。

戦後の日本では政教分離に関する裁判事例がある。それを参考に、これまでを検証することはできる。ただ、国民的な議論という意味では、フランスとは全く違う。例えば政教分離関連の訴訟や首相による靖国神社参拝問題などが報道されることもあったが、国民がしっかりと議論するほどにはならなかった。

政治家の秘書が関係者であったり、選挙で応援を受けたりしたなどと指摘されている。一方、面接などで宗教に触れる質問をすることは信教の自由を侵害する。

まさに信教の自由の侵害になる。どの宗教が良いか悪いか、判断を政治家ができるわけではない。宗教団体に限らず、団体や個人が社会に危害や損害をもたらすことをしたのかという結果責任を問うべきだ。

ただ秘書であれば、政治家の活動に害をもたらさない発言や振る舞いをする必要が当然あり、その人がどんな信仰を持っていたとしても、特定の宗教団体に利益を還元するような行動は慎まなければならない。それを当の政治家がきちんとチェックできていればいいだけの話だ。

献金規制、宗教活動の制限に

旧統一教会をめぐっては信者の生活水準よりも高額な献金が指摘される。献金の上限規制を設けるべきだとの声もある。

自由意思が制限されたり、強制されたりすることに関しては十分にメスを入れた方がいい。ただし、一律に一定以上の献金額を制限することは、宗教団体の自由な活動をかなり阻害することになる。結果的に信教の自由の侵害になる。

どの団体も「本人の意思に基づき、献金された」と主張する。その後問題が生じた際に、本当に自由意思であったかを第三者が検証できる仕組みはあってしかるべきだ。宗教団体の内部の問題や個人の信仰の問題だと排除せず、問題を受け止める窓口ができるだけでも、状況は改善する。

政治家が選挙で応援してもらう人を選ぶことは難しいとの意見もある。特定の団体とどう関わっていくべきか。

関わってくる一人ひとりの背景を精査することができないことは確かだろう。ただし、大きな団体が組織的に動く場合、当然組織の名称が出てくる。講演やあいさつを依頼し、献金を申し出てくる団体が無数にあるわけではなく、十分にチェックできる。

憲法20条では、過度な特権を与えることになりかねないかや、結果的にお墨付きを与えていないかなど、政治家の倫理感覚が働いているかどうかを問うている。20条の精神をわきまえることのできない政治家はその名に値しないのではないか。

有権者が政治と宗教の議論を考えるとき、どんな点に注意すべきか。

日本の近現代史の中で、政治と宗教の関係を冷静に振り返ることが必要だ。戦前の日本は政教一致(祭政一致)国家だった。政治と宗教が一体化していた。天皇を中心とした国家体制を持っていた。これへの強い反省が戦後憲法の中にはさまざまな形で反映されており、当然20条もそうだ。

国家が宗教的な機能を持ち、教育勅語も定めるなど、結果的に戦争に国民を動員していった。それを反省する中で、戦後は国家神道を解体し、政治と宗教を分離する方向に向いてきた。それは日本固有の歴史の中から得た教訓だ。かつて国家が宗教的機能を過剰に持ってしまったことを忘れてはならない。

旧統一教会との関係は今に始まったことではなく、あえてグレーゾーンを残すことによって、利用できるものは利用したい思惑があった結果の一つが今回の件だ。

今後、政教分離の在り方や宗教の社会的位置付けの議論をするにしても、現在の状況のみで判断するのではなく、日本の近現代史で宗教と政治がどんな関係を持っていたのかを考えていく中で、より冷静で、長期的に見ても役に立つような、意味のある議論ができるのではないか。フランスを見るのではなく、まずは自分たちの足元を見た方がいい。

小原克博(こはら・かつひろ)
専門はキリスト教思想や宗教倫理学。同志社大神学部教授。同大良心学研究センター長。56歳。著書に『宗教のポリティクス日本社会と―神教世界の邂逅』など。