「被告北朝鮮の代表者は原告らに8800万円支払え」。今年1月、北朝鮮トップの金正恩朝鮮労働党総書記に高額な賠償金の支払いを命じる衝撃的な判決が東京地裁で言い渡された。裁判を起こしたのは、戦後に進められた帰還事業で「地上の楽園」ともてはやされた北朝鮮に渡り、「この世の地獄」を見た脱北者たち。その中には、家族のために海を渡った日本人もいた。「もし北朝鮮に行っていなかったら、どんな人生だったかな」。今年85歳になる斎藤博子さんは、その壮絶な半生を振り返った。(共同通信=助川尭史)
行きたくなかった「地上の楽園」
1941年、福井県で日本人の父、母の間に生まれた。17歳で眼鏡職人の在日朝鮮人の夫と結婚。ほどなく娘が生まれた。ちょうどその頃、自宅に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の職員が訪れ、しきりに北朝鮮へ渡るよう勧めるようになった。「病院も学校もお金はかからない。何も心配はいらない」。全く知らない異国の地への渡航をしきりに勧める職員をいぶかしんだが、同居していた夫の家族は日に日に「地上の楽園」への憧れを募らせていった。
「もし日本に残るなら孫娘は自分たちが連れて帰る。あなたにはやらない」。しゅうとめに言い放たれ、まだ1歳だった娘のために、夫の家族と北朝鮮に渡ることを決めた。「日本人は3年たてば帰ってこられる」との職員の言葉も後押しになった。
1961年、新潟の港から出発した船が北朝鮮の港に近づくと、灰色の町が徐々に見えてきた。げっそりとした迎えの人々の顔は黒く汚れ、ぼろぼろのシャツを着た子供はパンツもはいていなかった。だまされた―。帰還者たちは抵抗する間もなく、バスに押し込められた。車内で配られた菓子は、おがくずのような味がした。
水道のないアパートで輝いて見えたネオン
割り当てられた住居は古いアパートの一室だった。水道はなく、朝起きたら川で水をバケツでくんで4階まで運び、使った水を1階に下ろすのが日課になった。電気は頻繁に止まった。真っ暗な部屋からは、国境を流れる川向こうの中国のネオンが遠く光っていた。
配給はごくわずかで、日本から持ってきた衣類や日用品は全て売って食料に替えた。共に渡航した夫の両親はまもなく亡くなり、義姉は過酷な生活を苦に自死した。
アパートには同じ境遇の日本人妻もいたが、日本語での会話は禁じられた。「顔を合わせれば愚痴ばかり。悪い言葉ばかり先に覚えちゃった」。現地では、さらに5人の子供に恵まれた。だが、夫の給料は8人家族を支えるには到底足りない。生活の足しにするために山でワラビやタンポポを取り、ドングリを湯がいて作った酒を闇市で売った。
「あの人のことは今でも嫌いやわ」。自分の人生を大きく変えた夫のことを話す時、斎藤さんは決まって顔を曇らせた。手元に残る当時の写真には、2人で写った写真は1枚もない。けんかばかりだったという結婚生活。ただ最近、夫は口には出さなかったが妻子を巻き込んだことを後悔していたのではと思うようになった。「夫は体も強くなかったし、日本にいてもうまくいかなかったかもしれない。私にしか当たる先がなかったのかなと思うと、お互い苦労してたんやろうなって」
「なぜ北朝鮮に来たの?」答えられなかった問い
1993年、夫は結核でこの世を去った。時を同じくして大規模な飢饉が北朝鮮を襲い、配給は一切途絶えた。極限状態の中で多くの市民が生活のよりどころにしたのは、操業できなくなった工場の機械を壊して、中にある銅線を中国に売りさばくことだった。全ては生きるため。子どもたちと何度も街に繰り出し、密売に手を染めた。
ある日のこと、移動中の列車で銅線を持っていたことが警察官に見つかり、車掌室に連行された。しばらくすると赤ん坊を背負った若い女性が入ってきた。女性はひどく憔悴した様子で泣くばかりで、赤ん坊は身じろぎもしない。終点駅について警察官が「子供を下ろせ」と命令した。机の上に横たえられた赤ん坊を見て、思わず息をのんだ。肌着は真っ赤に染まり、縦に裂かれた腹部には銅線がぎっしり詰まっていた。女性は、餓死したわが子の遺体を使ってでも生き延びようとしていたのだった。「この国では、ここまでしないと生きていけないのか…」。その場は解放されたが、絶望的な気持ちにのみ込まれて、ただ体が震えた。
その後も、明日をも知れない生活は続いた。三女は嫁ぎ先で餓死し、長女と次女は銅線盗の罪で刑務所に送られた。「お母さんは、なぜ北朝鮮に来たの?」。捕まる直前、30代になっていた長女の問いが斎藤さんは今でも忘れられない。「この子を連れて行くと決めたのは私。何も言えませんでした」。その後、人づてに長女は獄中で亡くなったと聞いた。次女の行方は今も分からない。
「日本に行ってみないか」利用された望郷の思い
それからまた数年がたった頃、日本からの帰還者を探しているという中国人ブローカーに声をかけられた。「日本に行ってみないか。金を稼いで仕送りすれば家族を楽にできる」。40年間、一度も帰れなかった日本の土を踏める。望郷の思いは日に日に募り、ついに脱北を決意した。
2001年、古タイヤを浮輪代わりに国境の川を越え、中国へと渡った。落ち合った別のブローカーは日本への渡航について、ある「交換条件」を持ち出してきた。「自分の妻をあなたの娘として連れて行ってほしい」。断ることはできなかった。その年の8月、斎藤さんは60歳で帰国を果たした。
日本に帰ってきて真っ先に向かったのは、福井の実家だった。病院にいた母の手を取り「ごめんね。もうちょっと早く来たかった」と告げると、じっと顔を見てぽろぽろと涙をこぼし、頭を振った。それが最後のやりとりとなった。妹たちからは財産の相続放棄を迫られ、了承すると音信不通になった。
その後は支援者の元に身を寄せた。食費を節約するため3食カップラーメンで過ごしながらパートで稼ぎ、時折手紙をよこす北朝鮮に残る子供たちへの仕送り資金をためる日々。だが長男は病気で亡くなり、次男は消息を絶った。
一方、「娘」として来日したブローカーの妻は、親類と偽って中国から仲間を呼び寄せ、風俗店を開いて荒稼ぎを始めた。「いつかばれる」。良心の呵責に耐えかね、警察に自首。ブローカーや仲間と共に逮捕され、2009年に大阪地裁で入管難民法違反ほう助の罪で執行猶予付きの有罪判決を受けた。「利用されていることは分かっていた。だけど、子供のことを考えたらこうするしかなかった」
待ち望んだ日本での生活を経ても、苦しみが報われることはなかった。
北朝鮮に事業の責任を、立ちはだかった「壁」
「北朝鮮政府に裁判を起こす」。そう聞いた時は半信半疑だった。それまでも事業への参加を勧誘した朝鮮総連に対する訴訟は何度かあったが、裁判所はいずれも事業終了から20年以上が経過し、民法上の時効が成立すると判断していた。
「渡航させただけでなく、出国を許さず現地に留め置いたことまでを一連の不法行為ととらえれば、損害の終了時点は脱北した時になる。主体的に計画、実行した『北朝鮮政府』を訴えることで時の壁が越えられる」。訴訟を担当した福田健治弁護士は、北朝鮮を被告とした理由をそう語る。
2018年8月、斎藤さんたち5人の脱北者は1人当たり1億円の損害賠償を北朝鮮に求め、東京地裁に提訴した。
外国の政府そのものを訴える前例のない裁判では、そもそも日本の裁判所に裁く権利があるかどうかからが争われた。2022年3月の地裁判決は、日本政府が国家として承認していない北朝鮮は、外国の裁判権に服さない「主権免除」が適用されないと判断したものの、出国制限については日本の裁判所の管轄外と判断し、賠償を認めなかった。
斎藤さんたちは判決を不服として控訴。その約1年半後に言い渡された2023年10月の東京高裁判決が訴訟の流れを大きく変える。判決は事業への勧誘から出国制限までを「継続的な不法行為」と捉えた上で、もう一度地裁で審理を尽くすべきと結論付けたのだ。
上級審の東京高裁の判断を、差し戻し審の地裁は覆すことはできない。事実上、焦点は帰還事業で受けた損害を裁判所がどのように賠償額として認定するかに絞られた。
「人生の大半奪われた」異例の判決のその後
今年1月26日。東京地裁の差し戻し審判決は、慰謝料として原告1人当たり2200万円、計8800万円の賠償を北朝鮮に命じた。神野泰一裁判長は北朝鮮に渡ることになった経緯や、現地での過酷な生活状況を個別に認定。一般的な水準より非常に高額な慰謝料額を認定した。
「人生の大半を奪われたといっても過言ではない」。法廷で判決文の要旨が読み上げられると、斎藤さんは原告席でそっと涙をぬぐった。傍らには提訴後に亡くなり、訴えを取り下げざるを得なかった原告の女性の遺影があった。
2月10日、北朝鮮政府は控訴せず判決は確定した。弁護団は賠償命令に実効性を持たせるべく、財産を差し押さえる方法を模索している。
斎藤さんは、脱北に成功した四女や孫たちとともに大阪府で静かに暮らしている。気がかりなのは、現地で出会った日本人妻たちのことだ。事業で海を渡った日本人妻は約1800人いると推定されている。「残された時間はもうわずか。一日でも早く里帰りができるようにしてほしい」。今回の判決がその糸口になることを、今はただ、願うばかりだ。

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北朝鮮帰国事業と日本人妻
1959年から始まったこの事業は、在日朝鮮人とその家族が「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮へ帰還・移住する運動でした。
1984年までに約9万3,000人が渡航し、その中には約7,000人の日本人(主に在日朝鮮人の夫に同行した日本人妻)が含まれていました。
当時北朝鮮を礼賛していた政党やメディア
当時、革新政党を中心に北朝鮮や中国共産党の体制を高く評価し、帰国運動を積極的に支援していました。
日本共産党
北朝鮮との関係において最も中心的な役割を果たしました。
北朝鮮を「労働者が主人公の国」「失業も税金もない理想郷(地上の楽園)」と呼び、社会主義体制の優位性を強調しました。機関紙『アカハタ』などで帰国要求を全面的に支持し、岸内閣を批判しながら一刻も早い帰国実現を訴えました。
日本社会党(現・社民党の前身)
当初は慎重でしたが、後に北朝鮮との密接な関係を築きました。
北朝鮮の金日成主席が提唱した「主体(チュチェ)思想」を高く評価し、同国の建設を「アジアにおける社会主義の勝利」と賞賛しました。1970年の成田知巳委員長による訪朝以降、公式な友好関係を深め、北朝鮮の立場を支持する声明を繰り返しました。
朝日新聞
北朝鮮帰国事業において、最も影響力を持ったメディアの一つです。
北朝鮮を「失業者が一人もおらず、衣食住が完全に保証された国」「地上の楽園」として描き、帰国を希望する在日朝鮮人の「明るい未来」を強調しました。
1959年12月25日付の紙面などで、帰国第一船の様子を「歓喜に沸く清津港」として報じ、「北朝鮮の経済発展は目覚ましく、日本より優れた社会主義国家である」といった論調を展開しました。
(以上は、生成AI)

