参政党「憲法草案」実現したら何が変わる? 人権規定が「ごっそり欠落」、国家の「やりたい放題」への懸念

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参政党「憲法草案」実現したら何が変わる? 人権規定が「ごっそり欠落」、国家の「やりたい放題」への懸念(弁護士ドットコム 2025年07月26日 09時29分)

7月20日の参議院選挙で14議席を獲得し、大きな躍進を遂げた参政党。「日本人ファースト」を掲げて有権者の心を掴んだ同党ですが、弁護士や憲法学者からは、その憲法草案に懸念の声が上がっています。

もし、この憲法草案が、実際にこの国の憲法となったら、今私たちが「当たり前」と思っていることが、そうでなくなるかもしれません。どういうことなのか、問題をしぼって検討してみたいと思います。

憲法草案への懸念について

憲法とは、政府の暴走を防ぐためのものであるというのが大前提です。法律が基本的に国民が守るべきルールであるのに対し、憲法は国民ではなく国が守るべきルールです。

憲法は、国が権力を暴走させないように、国を縛るための「足かせ」として作られているものです。法律などによりさえすれば国民の権利をいくらでも制約できるということになると、国家権力がやりたい放題になってしまうため、それを防ぐために憲法は存在します。

人権規定がごっそり抜けている

この草案は33条しかなく(日本国憲法は103条)、人権に関する規定がほとんどありません。

憲法に人権規定があるのは、政府が暴走しようとしても憲法が歯止めとなり、権力が国民の権利を勝手に制約できないようにするためです。これがなければ、人権が際限なく制約される恐れがあります。

具体的には、国民の財産が勝手に奪われたり(例えば、国のために必要だからと財産を差し出させたり、家を潰して基地を作ったり)、徴兵制によって戦争に行かせられたり、政府に不都合な人間の調査や逮捕が横行したり、治安維持法のようなものを復活させることも可能になってしまいます。

SNSで自由に意見を投稿できるのも、表現の自由(21条1項)が保障されているからです。 参政党草案では、表現の自由も明文で保障されていないため、自由な意見を発表すること自体が禁じられたり、発表したことを理由として逮捕・処罰される可能性も出てきてしまいます。

他の権利も挙げればきりがありません(ごく一例として、平等権や思想良心の自由もありません)。

問題なのは、そのような権利侵害の危険性が現時点であるかどうかではなく、将来的に権利侵害が可能になってしまうという点です。

現在の権力者が国家権力を濫用するつもりがなくても、将来にわたって権力濫用を防ぐため、憲法でルールをきちんと文字にして示すことが必要なのです。

人権規定は、フランス革命など歴史の中で多くの犠牲を払って獲得してきた権利であり、それを一切記載しないのはとても危険なことです。

「日本を大切にする心を有すること」誰がどう判断?

また、国民の要件として「日本を大切にする心を有すること」が基準とされていますが、その「心」は、誰がどのように判断するのでしょうか。国が「心を有していない」と判断すれば、その者を国民ではないとし、権利を保障しないことが可能になります。

また、「日本」という言葉も実はあいまいです。たとえば、政府に反対の意見を持つ人は「日本を大切に」する心を有していないとされてしまうおそれがあります。

さらに、たとえ国民であっても、この草案では「公共の利益(公益)」が非常に重視されており、公益のために国民の権利を制約することが容易であると読めます。

日本国憲法でも公共の福祉のために権利が制約されることはありますが、それは最小限の制約に限り、公益が常に優先されるわけではありません。この草案は、公益のために国民の権利を制約しやすい規定ぶりに読めます。

つまり、そもそも人権が与えられない可能性があるうえに、与えられた人権も簡単に制約できてしまう、という二重の意味での構造的な問題があると思います。

手続きなしに憲法が変わってしまう?

本草案は、「創憲」という言葉を使っています。 これを「改正」と意図的に使い分けているのであれば、そこに何らかの法的な意味が込められる可能性があります。

もしかしたら、「創憲」という言葉は、たとえば「参政党が新しい憲法を作るのだ」という意気込みを示すため、というような、精神的な意味合いで使っているのかもしれません。

しかし、法律の用語は、1つ1つの文字を選ぶことに意味があり、文字を変えてしまえば精神的な問題だけでは済みません。

たとえば、「創憲」は「改憲」「憲法改正」ではなく、新しい憲法は現在の憲法と連続性を持たない、と言い始めたらどうなるのでしょうか。

この場合、日本国憲法が定める厳格な憲法改正手続によらないで、新しい憲法を作れるという意味に捉えられかねません。

なお、文字の使い方という意味では、「権利」を「権理」としていることにも意味があるはずです。

これが「理にかなっている」と認められるものだけを「権理」として保障するということであれば、その判断が国家に委ねられ、国民の権利を簡単に制約できてしまう危険性があります。(弁護士ドットコムニュース編集部・小倉匡洋)