「自民党」分裂から30年――政権交代を二度成し遂げた「小沢一郎」の独白「自民党にいたら死ぬまで左うちわだったよ」(デイリー新潮 2023年06月23日)
岸田内閣に対する不信任決議案が否決された6月16日、立憲民主党の小沢一郎衆院議員らが中心となり、野党候補の一本化を求める有志の会が設立された。念頭にあるのは「政権交代」だ。その原点はいまから30年前に遡る。小沢氏は羽田孜氏らと共に自民党を離党し、1993年に新生党を立ち上げた。直後の総選挙では新生党や日本新党、新党さきがけが躍進し、自民党は1955年の結党以来、初めて野党に転落。ついに政権交代が実現した。それから30年の時を経て、81歳となった小沢氏は激動の只中にいた当時をどう振り返るのか。そしていま、何を考えているのか――。ジャーナリスト・鈴木哲夫氏がその胸中に迫った。前後編のうち「前編」。
本当の議会制民主主義を作る
――6月23日、新生党結党から30年。当時はきっといろんなことがあったと……。
小沢:もちろん。覚えてる、覚えてる。
――小沢さんがあの時、行動した思いと苦労を聞かせてほしい。いまだからこそ話せる秘話もぜひ伺いたい。
小沢:実は、小選挙区制度の主張っていうのは、立候補した時からずっとしてきたんだよね。小選挙区っていう選挙制度に意味があるんじゃなくて、それはあくまでも手段。日本の現状を打開して、本当の議会制民主主義を作るためにはまずは選挙制度を変えようということ。要するに当選者が一人。一人というのは二者択一、どっちか選ばなきゃならない。日本人って、まぁ、みんなにいい顔しながら妥協して行こうという生ぬるい感じがあるけど、それではいつまでも自立できない。
一人を選ぶということで、そういう日本人の性格的な問題を解決することが一つ。それからこの二者択一は、ちょっとの票で当落が決まるから政権交代が可能だと。昔は「小選挙区では自民党一党独裁が続く」と社会党や共産党がよく言ってたけど、それは嘘だったよね。その証拠に、その後、政権交代ができたじゃない。だからこの二つでもって、僕は小選挙区制度を最初の立候補した時から言い続けてきた。
――立候補した時から言っているのに、小沢さんが自民党を離党し、新生党を結党した頃、権力闘争のために、急に小選挙区制を言い出したみたいに思ってる人いますよね。
小沢:あの頃、政治臨調ができて、政治改革というなかで、小選挙区制度もクローズアップされてきた。宮澤喜一政権の失態や経世会の後継問題もあったけど、それは付随的な話でね。私が自民党を離党して新生党を作ったのは、よく「経世会の争いで飛び出したんだろう」って言われたけど、それだけなら何も自民党を出る必要はない。だって、それなら単に派閥を割ればいいだけの話でしょ。だから、要するにやっぱり選挙制度を変えるという、最初からの自分の主張が、今こそ実現できるのではないかと思ったんだよね。だから迷いはなかった。
日本人の多くは体制擁護派
――僕もあの時はフジテレビの政治部にいたんですけど、小沢さんの行動は、結局、経世会の分裂騒動、権力闘争で割って出たみたいに多くのメディアが取り上げましたね。
小沢:全く現実を無視した話なんだよ。もし権力闘争のというなら自民党に残ってた方がいいもの(笑)。要するにね、日本人の多くは体制擁護派なんだよ。変えることが嫌い。だから、マスコミも日ごろ反権力、反権力と言うけど、いざとなると権力側なんだよね。今なんて権力べったりでしょ。所詮、現体制を乱す奴はみんな悪人になっちゃう。個人的な政治のことで思い切って本当のことを言えば、ずっと自民党にいた方がよかった。死ぬまで左うちわだったよ、自民党にいたら。だって、あの頃は経世会でも半分は私の味方だったから、そのまま残ってて「後継は小渕(恵三)会長でいいよ」と認めて、後ろでコントロールしてね。
――キングメーカーとして(笑)。
小沢:(笑)。だから、個人的なことだけを考えるなら、自民党を出る必要なんかなかった。そこを何でみんな分からないのかなって思ってたね。権力闘争と小選挙区ということだけが取り上げられてね。
――離党して新生党を作ったメンバーは経世会の衆議院議員を中心に50人以上。彼らには何と話した?
小沢:3グループくらいに分けて、あと、個別にも話をしたな。若い人も中堅も。一人一人を呼んで話したわけではないけれど、みな気持ちは大体一緒だったから。それで、心配するなと。離党するときは政権取る時だから、必ず政権を取ってみせるからって。それでみんな納得した。頼むよという言い方はしてない。それはしてない。
――その時は、やっぱすごい決断だったんではないかと。
小沢:そりゃそうだよ。最大派閥を割っただけじゃなくて政権与党を飛び出すんだから。
――何がそうさせたのか。
小沢:やっぱり小選挙区ができる、その先に政権交代も可能だと思ったから。自民党を少数にすればできるという思いだったね。
「俺は小沢一郎を総理にしたかった」
――当時、側近と言われていた経世会の七奉行、奥田敬和さんとか渡部恒三さんと羽田孜さん。行動した時の同志たちはどうだったか。
小沢:奥田君は決起しようと、初めからね。渡部さんはどっちだか分からないところもあって(笑)。だけど、若い連中がやるっていうもんだからついてきた。裏話があって、渡部さんが反対側にいた梶山(静六)さんと話した時に「どうせ離党するといっても4、5人だから心配ないよ」と伝えていたんだな。で、梶山さんはそのガセネタに騙されて解散を強行した。宮澤総理もそれに乗っちゃったわけだ。その結果、自民党は過半数割れ。政権交代になった。
――別れ別れになって激しく戦ったけど、梶山さんは僕が一対一で取材した時に「俺は小沢一郎を総理にしたかった」って言ったんですよ。
小沢:うん、彼はそう言ってくれてた。彼と私の、ある意味での仲違いというか、それは私が先に自民党の幹事長になっちゃったからなんだよ。彼は先輩で、私を育ててやろうと思ってくれていた。だから、金丸(信)さんに「幹事長」と言われたときに断ったんだよ。「幹事長なんてとんでもないです」って。ところが、金丸さんが私をえらい可愛がってくれていて、「何を言うんだ、ふざけるな、お前やれ」って。梶山さんはやっぱり憮然としてた。そこからなんだ、梶山さんがちょっと距離を置き始めたのは。
私はあの時、梶山さんを幹事長にして、自分は国対委員長でいいと金丸さんに言ったんだよ。もしそういうふうに逆だったら、ごくごく順調に行って、そうすれば梶山さんも選挙制度を「うん」って言ったかもしれないね。私が選挙制度やってくれって頼めば。そうなれば全然違ってたね。もしかしたら自民党の中で小選挙区制ができたかもしれない。梶山さんと私が同一歩調でやったら自民党全体を説得できるから。
――戦って別れた仲間には橋本龍太郎さんもいた。
小沢:龍ちゃんとは仲良かったよ。私が一人もんの時にね、「いい人いたら頼みます」って言ってたら、じゃあ、紹介してやると言ってくれたんだけど、それが「実は俺が1回見合いした相手だ」って言うんだよ、ひどいよね(笑)。まあ先輩にお願いしていたのは私だし、結局は会った。だけど、先輩ごめんなさいって(笑)。
――小沢さんの敵だった梶山さん、橋龍さんだけど、あの頃の政治家の行動原理ってみんな……。
小沢:何かを持ってたんだよね。その中身が、何もそんな崇高なものであるかどうかは別として、自分の誇りというか矜持というか大義というか。あったね。うん。
※以下、「後編」に続く。