アメリカの英雄「マッカーサー」が、なぜか「総司令官」を解任された「ヤバすぎる理由」(現代新書 2023.03.01)
玉置悟 翻訳家 ノンフィクション作
なぜ世界各地で戦争や紛争は続くのか。世界経済はなぜ不安定なのか。
実は、現代という時代が今のようになったのは「アメリカとロシアの闘い=冷戦」が多大な影響を及ぼしている。もともと欧米とロシアとの闘いは、100年以上も前から続いており、地政学の大家・マッキンダーもこの闘いを「グレートゲーム」として考察していた。つまり、ここ100年の世界の歴史は「地政学」と「冷戦」という2つのファクターから眺めると、とてもクリアに理解が広がるのである。
いまウクライナで起こっている戦争も、中東やアフガニスタンで紛争が絶えないのも、この「地政学」+「冷戦」の視点からみていくと、従来の新聞やテレビの報道とはまた違った側面が見えてくる。まさに、それこそが「THE TRUE HISTORY」なのだ。発売前から一部で大きな話題になっている、「地政学と冷戦で読み解く戦後世界史」から、とくに重要な記述をこれからご紹介していくことにする。
北朝鮮軍の快進撃とマッカーサーの解任
1950年6月25日、北朝鮮軍が数ヵ所からいっせいに38度線を越えて南に侵攻を開始し、戦争の火蓋が切って落とされた。米軍は38度線の北側に北朝鮮軍が集結しているという情報を得ていながら侵攻を想定しておらず、ソウルはわずか3日で陥落した。アメリカはただちに国連安全保障理事会の開催を求め、ソ連が欠席したため国連軍の派遣が決定された。国連軍と言っても中身は大部分が米軍である。
ソ連は前年に誕生したばかりの中華人民共和国を西側諸国が承認しないことに抗議して、その年の1月から国連安全保障理事会をボイコットしていたが、北朝鮮の侵略を受けて開かれた緊急理事会も欠席したのだ。出席して拒否権を行使すれば決議の採択を阻止できたのに、なぜスターリンはソ連代表を欠席させたのだろうか。
それは「北朝鮮と中国をアメリカと闘わせる」ということだったのだろう。その証拠に、アメリカ政府はモスクワのアメリカ大使館を通じてソ連政府に北朝鮮の攻撃をやめさせるよう要請したが、ソ連政府は仲介を拒否している。「戦争をやめさせる気はない」という露骨な表明だ。
極東米軍総司令官のマッカーサーは「日本にある(米軍の)すべてを投入する」と宣言し、米軍は大慌てで態勢を整えて7月はじめに韓国に到着し、韓国軍を指揮下に入れた。だが韓国軍は装備が貧弱なうえ訓練が行き届いておらず、ほとんど役に立たなかった。
150輛のソ連製戦車を先頭に9万人の大軍が攻め込んできた北朝鮮軍に対し、7月を通じて直接戦闘にかかわった米軍の主力はわずか一個旅団の4000人だった。この師団は7月だけで30パーセントの死傷率を被り、米韓軍はわずか3週間で半島南端の釜山まで撤退する惨状に陥った。
マッカーサーが主張した上陸作戦
一方の北朝鮮軍は、装備も整い訓練も行き届き、士気も高く、破竹の勢いで進撃したが、弱点は兵站物資の不足だった。一気に進撃を続ければ、補給線も一気に延びてしまう。北朝鮮軍は7月23日には釜山包囲にかかるまで南下したが、肝心の補給が続かなくなり、動きが止まってしまった。
世界一の軍事力を自負する米軍にとって、北朝鮮のような小国(当時の北朝鮮の人口は1000万人前後だった)の軍隊に米軍の歴史始まって以来の大撤退を強いられたのは屈辱的だった。ペンタゴン(アメリカ国防総省)は7月から8月にかけて大急ぎで極東米軍を増強し、航空戦力の指揮系統を整えた。
9月15日、米軍の増援部隊が仁川への再上陸に成功し、北進を開始した。この時は上陸した米軍7万人に対して北朝鮮軍の仁川守備隊はわずか2000人で、彼らは米軍の上陸をまったく予想していなかった。6月末に北朝鮮軍が南進を開始した時とまったく逆の状態だったわけだ。
この上陸作戦はマッカーサーが7月から主張していたが、リスクが高すぎるとしてそれまで統合参謀本部が許可しなかったものだった。ところが一か八かでやらせてみたら難なく成功してしまったことから、その後のマッカーサーの傍若無人な言動を統合参謀本部が抑えられなくなる大きな要因となっていく。
仁川から上陸した米軍は、北から半島南部に通じていた北朝鮮軍の補給路を切断し、その効果があって、釜山に閉じこめられていた米軍は包囲の突破に成功した。上陸した米軍はそのまま北進してソウルを奪還し、10月はじめには38度線を越えて北に攻め込み、同月末近くには中国との国境である鴨緑江まで到達した。その過程で、退却する北朝鮮軍は米軍機の空爆により大きな被害を出している。
マッカーサーが「感謝祭(11月の第4木曜日)までに北朝鮮軍など殲滅する」「米軍兵士たちはクリスマスまでには帰国できるだろう」などと発言したのもこの頃だ。だがこの急速な北進で、米軍は7月に一気に南進した北朝鮮軍と同じ誤りを犯すことになったのだ。すなわち、補給線が延びきってしまったということだ。
そしてさらに、米韓軍が鴨緑江に到達したのとほぼ同じころ、川の北側に集結していた中国の推定26万人の義勇軍が川を渡り始め、米韓軍への攻撃を開始する。米韓軍は10月末近くから11月末までに大きな被害を出し、12月はじめには再び撤退する羽目に陥った。こうして米軍は、クリスマスまでに帰国できるどころか、再び38度線の南側まで押し戻されてしまった。
中国が送った軍隊が義勇軍と呼ばれたのは、人民解放軍が参戦したとなれば正式に中国とアメリカの戦争になってしまうので、志願兵が参加したという形にしたためだ。したがって、義勇軍とは名ばかりで、中身は人民解放軍の正規軍だった。
その後の戦局は一進一退を続け、翌1951年春になると、38度線のあたりで戦況は膠着状態に陥った。トルーマン大統領は停戦を考えていたが、マッカーサーは強硬な発言をやめず、後述するように、トルーマンと衝突して解任されてしまう。そして同年6月、ソ連が停戦を提案し、米朝交渉が開始された。戦争が始まってから1年後のことだった。
交渉は断続的に続き、それにともない激しい戦闘は行われなくなり、米朝どちらも勝つ見通しが立たないまま時間だけが流れた。そして1953年1月にアメリカでトルーマンが退任してアイゼンハワー政権がスタートし、かたや3月にはソ連のスターリンが死去して、新しい時代が訪れた。板門店でようやく休戦協定が結ばれたのは、交渉開始から2年後の同年7月のことだった。
マッカーサーが解任された本当の理由
マッカーサーは太平洋戦争でアメリカを勝利に導いた連合軍総司令官として、米国民やメディアから英雄のように扱われていた。だが彼は1948年の大統領選挙に色気を出し、共和党の候補者を選ぶ予備選挙に出馬したが、有力者の支持が盛り上がらず早々とレースから脱落している。かつての部下だったアイゼンハワーが軍人というよりはむしろ政治的な人間で、次第に政治家として頭角を現していったのとは対照的に、マッカーサーは政治に向かないタイプの人間だったのだ。この点を理解すると、マッカーサーにまつわるゴタゴタがなぜ起きたのかが見えてくる。
前述のとおり、マッカーサーは1951年4月11日にトルーマンに解任された。その理由については、満州への爆撃や原爆の使用などの強硬な主張をくり返してトルーマンと衝突したためだったと言われているが、じつは原爆使用の主張は解任の理由ではない。ペンタゴンの内部では、北朝鮮軍が侵攻を開始してまもない1950年7月上旬に、すでに原爆使用の可能性が話し合われているのだ。最初に原爆の使用を口にしたのはアイゼンハワーだった。
マッカーサーの傲岸不遜な発言やトルーマン批判がエスカレートしていったのは、1950年9月15日の仁川再上陸作戦が成功してからだ。それまでペンタゴンの上層部が認めなかった作戦を一か八かでやらせてみたら成功したのだから、自己顕示欲の強いマッカーサーが得意満面になったのも不思議ではない。この作戦の成功でアメリカ国内のマッカーサー人気が爆発的に高まり、統合参謀本部はマッカーサーを批判することができなくなった。
だが、米軍が緒戦で短期間に未曾有の屈辱的な退却を余儀なくされ、しかも多数の戦死、負傷、行方不明、捕虜を出したのは、マッカーサーが北朝鮮軍の力を見くびっていたことが原因だ。とくに海兵隊の戦死率は受け入れがたいレベルにまで達しており、そのすべての最終責任は、敵を侮って準備を怠っていた総司令官に帰着するのである。
ところがマッカーサーは、部下を現地司令官として韓国に派遣して、自分は東京で取り巻きに囲まれて居心地の良い生活を続けており、現地を視察に行っても日帰りで東京に戻ってしまい、朝鮮半島に一晩も滞在したことがなかった。またマッカーサーははじめから「北朝鮮に侵攻して(中国との国境の)鴨緑江まで進撃する」と挑発的な発言をくり返していたが、その発言は「38度線より北で行う作戦については、ホワイトハウスの承認を必要とする」という鉄則を無視したものだった。
第三次世界大戦に発展する可能性
なぜ北進にホワイトハウスの承認が必要だったかというと、38度線より南で行われていた戦闘は侵入してきた敵を撃退するための防衛的なものだったが、38度線より北に攻め込むとなれば、他国への侵略になるからだ。それでアメリカは北進するために国連の承認を必要としたのである。加えてトルーマン政権は、北に攻め込むことで中国だけでなくソ連の参戦を誘発し、第三次世界大戦に発展する可能性を懸念していた。
仁川の再上陸作戦から1ヵ月後の10月15日、太平洋のウェーク島でトルーマンとマッカーサーの会談が持たれた。ウェーク島というのは実際には“島”ではなく、草木も生えていないただの環礁で、コンクリートを流し込んで作った滑走路と軍の建物以外は何もないところだ。
そのような場所で2人が面会したのは、マッカーサーがアメリカ本土まで行くのを拒否したからだという説があるが、じつは中間選挙を目前にひかえたトルーマンが国民の注目を集めるために行ったパフォーマンスだったというのが真相だ。トルーマンは、太平洋戦争末期にルーズベルト大統領がフィリピンにいるマッカーサーを訪問して激励し、それがアメリカのメディアに大きく報道されて国内のルーズベルト人気が高まった前例に倣おうとしたのだろう。
ところがマッカーサーは、そのことを見透かしたかのようにわざと遅れて到着し、トルーマンを滑走路わきで待たせたうえ、対面した際には敬礼せず握手をしている。軍人が国の最高司令官である大統領に対して敬礼しないというのは相当な非礼だ。これだけでも、マッカーサーのトルーマンに対する態度がどういうものだったかがわかる。マッカーサーが予備選に出馬したものの早々と脱落した1948年の大統領選挙で、トルーマンが大統領に再選された「因縁」と結びつけるのは考えすぎだろうか。
もっとも、この会談がトルーマンの国内向け政治パフォーマンスだったのは見え見えで、2人は朝鮮戦争の戦略についてはまったく話し合わず、交わした会話は東アジア情勢全般に関する漠然とした内容ばかりだった。トルーマンは大統領専用機に記者団を同乗させてウェーク島まで連れて行き、会談を取材させたが、東京から記者団を同行させたいというマッカーサーの要望は却下している。
こうしたことを考えれば、マッカーサーがトルーマンの政治宣伝のダシに使われたと感じて不快だったのもよくわかる。だがマッカーサーはこの時に大きなミスを犯した。トルーマンから中国やソ連が参戦する可能性を問われ、こう答えたのだ。
その可能性はほとんどないですよ。心配する必要はありません。中国軍は満州に30万人いますが、鴨緑江のむこうに集結しているのはそのうちの10万から11万5000人以下です。そのうちの5万から6万人くらいが川を渡って来るかもしれませんが、彼らには空軍の支援がありません。もし平壌まで来ようとしたら、(我々の空爆で)大量殺戮ですよ。
ところがその時、中国軍はすでに渡河作戦の準備を終えており、その会談の数日後には大軍が川を渡り始めたのだ。そして10月末近くには米軍への攻撃が始まり、米軍は11月を通じて大きな被害を出したあげく12月2日に撤退を開始する。
原爆を使う可能性を検討していた
だがマッカーサーは、その後になってもなお、撤退の衝撃を大したことではないかのように語り、そういう態度のために事実上すべての米軍の高官と対立することになった。ペンタゴンの高官たちは「叱責されてもマッカーサーは大統領の命令に従わない」と考え始めた。
マッカーサーが統合参謀本部にはじめて原爆使用の裁量権を求めたのは、米軍が北朝鮮北部から撤退を開始してから1週間後の1950年12月9日だった。そして撤退終了前日の同年12月24日、マッカーサーは原爆34発(一説によれば26発)を使う具体的なターゲットのリストを統合参謀本部に提出している。だがそれらの要請はいずれも却下された。
ところがトルーマンは、すでに11月30日に記者の質問に答えて「北朝鮮に対する原爆の使用は考えている」と発言している。しかもその同じ日に、統合参謀本部から米空軍に「(核の使用を含む)実戦能力を高める準備をせよ」との命令が伝えられているのだ。
マッカーサーはさらに翌1951年3月10日にも多数の原爆を使って大がかりな反攻に出る作戦案を提出したが、再び却下されている。ところがその案が却下された直後の3月14日、ヴァンデンバーグ空軍参謀長が、「原爆使用に関する報告を見ると、すべて準備完了のようだ」と書いているのだ。
これはいったいどういうことなのか。
ホワイトハウスやペンタゴンの高官たちは、マッカーサーを除外して作戦計画を練っていたのだ。彼らは「あのような男に核使用の裁量権を与えることはできない。もし核を使うなら、もっと信頼のおける司令官が必要だ」と考えていたと言われている。つまりトルーマン政権は、原爆を使う可能性を検討していたからこそ、マッカーサーを解任する動きが始まったのである。
その後に起きた一連の出来事は、マッカーサー解任への気運が徐々に高まっていった経緯をはっきりと示している。
さらに連載記事<なぜ世界はここまで「崩壊」したのか…「アメリカ」と「ロシア」の戦いから見る「ヤバすぎる現代史」>では、ソ連崩壊から21世紀に至るまでの国際情勢の流れを追って解説する。
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玉置 悟 SATORU TAMAKI
1949年、東京生まれ。翻訳家・ノンフィクション作家。
幼少期から飛行機マニアで、航空機開発エンジニアを志し、1968年、東京都立大学工学部に進学。だが、当時のベトナム戦争や70年安保騒動に心を痛め、沖縄諸島に長期滞在し、ベトナムからローテーションで移動してきている戦闘部隊の兵士やアメリカ人平和活動家と交流を深める。最新の科学技術がベトナムで殺戮に使われている現実に幻滅し、エンジニアの道を断念、大学卒業後は音楽関係の道へ進んだ。
レコード会社の駐在員として1978年に渡米後、貿易会社やコンサルタント会社勤務を経てビジネス・技術翻訳・リサーチなどを手掛けるようになる。さらに、ベトナム戦争や湾岸戦争の帰還兵、軍需産業関係者(技術者ほか)、心理学者、平和活動家、国際政治の研究者など米国内に多彩な人脈を築くとともに、彼らを通じて知った多数の英文書籍や文献を研究し、国際政治や地政学に関する理解を深め、翻訳を通じて出版の世界にも活動範囲を広げていく。
これまでの主な翻訳書としては、ベストセラーになった『毒になる親』(スーザン・フォワード著、毎日新聞社/講談社+α文庫)がつとに知られているが、近年では国際関係に関する知識を活かして『「三つの帝国」の時代』(パラグ・カンナ著、講談社)『インテリジェンス 闇の戦争』(ゴードン・トーマス著、同)、『トップシークレット・アメリカ 最高機密に覆われる国家』(デイナ・プリースト/ウィリアム・アーキン著、草思社)『ロッキード・マーティン 巨大軍需企業の内幕』(ウィリアム・D・ハートゥング著、同)『中国の産業スパイ網』(ウィリアム・C・ハンナス/ジェームズ・マルヴィノン/アンナ・B・プイージ著、同)などがある。
初の書き下ろしとなる本書は、渡米以来40年余におよぶ著者の国際政治・地政学に関する独自の研究の成果が集約されている。