なぜ官僚や学者の政策はいつも失敗ばかりなのか アベノマスクから岸田政権の総合経済対策まで

なぜ官僚や学者の政策はいつも失敗ばかりなのか 政治・経済

なぜ官僚や学者の政策はいつも失敗ばかりなのか アベノマスクから岸田政権の総合経済対策まで(東洋経済ONLINE 2022/11/19 6:30)

小幡 績 慶應義塾大学大学院准教授

今回は政策について論じたい。はっきりいって、経済政策は失敗ばかりである。経済だけでなく、ほとんどの政策は失敗ばかりだ。

「官僚の想像力不足」が招いたアベノマスクの不評

なぜなのか。ひとことで言えば「想像力不足」「コントロールの誤謬」「庭先掃除癖」、そして「目的不在」がその主な理由だ。

もはや多くの人が忘れかかっているかもしれないが、2020年4月1日、安倍晋三首相(当時)は、国内全世帯への「布マスク」の無償配布を行うという方針を発表した。通称アベノマスクである。

当時、日本では、欧米の病院の悲惨な状況の映像を連日テレビで見せられた国民の間に、ウイルスの恐怖が蔓延していた状況だった。

当時は官邸にいた首相側近が「マスクを全国民に配れば、不安なんてぱぁーっと解消しますよ」と言い放ち、そのアドバイスに従った首相が支持率を急落させることになったと言われている。

このときの問題は、官僚の想像力不足であった。

当時は金(カネ)だってターゲットを絞って満足に配れていなかったのに、マスクというモノを早期に郵送で配布するなど、できるわけがなかった。政策の実行コスト、かかる時間、そのプロセスをどこまで想像できたのだろうか。当時は、金を国民全員に配るのですら、結局、広告代理店の関連会社の手を借りるような有様だった。

そして、もっとも想像力不足なのは、その政策の受け手(国民)が、どのように感じるか、そしてどのように反応するか、ということがまったくできていないのだ。マスクを受け取る人、という個人、生きている人間ひとりひとりを想像せずに、「国民」という概念で片付けてしまっているのがその原因の1つだ。

これは実は、投資でも同じだ。「市場はこう言っている」、という人々は市場というものがひとつのモノだと思っているが、それは大きな間違いである。個人投資家、機関投資家、ヘッジファンド、そして、それぞれのカテゴリーの中のひとりひとり、ひとつひとつが動いた結果で起きた取引の動きなのであり、「市場は」といった瞬間に情報はすべて失われる。

ひとつの概念にくくりつけて済ませよう、という「思考停止癖」は多くの日本人の特徴とも言えるが(これもそういう人が多い、というだけで、日本人というカテゴリーで済ませるのは本来良くない。しかし、便利だ。だからみなやってしまうのだ)、カテゴリー認識、パターン認識は行動経済学でも人間の行動の特徴とされている。

ただ、この癖を修正するのが想像力であり、それが官僚には著しく欠けている(これもまた、カテゴリー認識で、私が財務省に在職していた当時そういう人を多く見かけたから言っているのだが、大企業の本社に勤める多くのサラリーマンがそうであるかもしれない)。この想像力不足は、コントロールの誤謬につながる。

相手を「コントロール」できるという誤謬

官僚(政策を打ち出す側、主導権を握っている側、権力を握っている側)は、対象を、相手を支配できると思っているようだ。何か手段を持っていると、その作用が及ぶ対象は、手段を使う側の意図のとおり動くと思っている。

これは「コントロールの誤謬」と呼ばれる現象の1つである。たとえば、自分はサッカーに詳しいから、数字を選ぶ普通のくじよりも、サッカーの勝利チームを当てるくじのほうが、より当たると思ってしまうような現象を指す。

だが、ほかのくじの購入者もそういう人たちの集まりだから、結局は、数字を選ぶくじと同じくらいしか儲からない(同じくらい損をする)。

また、小さな組織のトップでは、組織の成員が命令に従うとき、いつでも思い通りに組織は動くと思ってしまいがちだ。だが、こうした考えは、外部環境の変化が、組織内の個人の行動にも影響を与えてしまうことを無視している。実際には組織の内部もコントロールできないのである。

金や権力に対する強い欲望は「多額の金があれば何でもできる」「権力があれば何でもできる」という錯覚に陥ることによるものだと私は思っているが、実際には金でモノが買えるだけであり、権力では心は動かせない。

「コントロールできる」、という感情はエクスタシーをもたらすから(と私は思っている)、「1億円の家が当たるくじ」よりも、「現金1億円が当たるくじ」のほうが圧倒的に人気がある。1億円あれば、いろいろなことができそうに思えて夢が広がるが、実際には1億円の家を買ったら終わり(しかも昨今では1億ではたいした家は買えない)であり、夢から覚めるのである。

さらに、人々を動かすことははるかに難しい問題がある。なぜなら、政策が作用する対象の側は、前出のように、国民や市場という概念ではなく、個々の人間の、経済主体の集まりだからである。

彼ら彼女らはスタティックではない、つまりじっとしているわけではない。ダイナミックなのである。そして、動くといっても、刺激に条件反射するわけではない。また、感じて動き、考えて動くものだ。

さらに、ほかの人間が動いたのに釣られて動き、相互にうごめき、群集となる。群集は、予測できないカオス的に動くこともあれば、集団として、個々の動きの合計を超えた群集パワーを発揮することもある。それはもう収拾がつかない。先日の韓国の事故の例を持ち出すまでもなく、群集はときとしてコントロール不能になる。群集自身にさえも、だ。

なぜ「庭先掃除癖」は治らないのか

もうひとつ重要な、官僚的な「悪い癖」もある。それは「庭先掃除癖」だ。

たとえば、日銀には「物価の安定」という重要な任務がある。すると、これを何よりも優先する。そして、物価さえ安定していればよいと考えがちになる。

それ自体は任務を忠実に遂行しているから望ましい官僚像、セントラルバンカー像である。これが悪影響をもたらすのは、物価の安定に集中しすぎて理性的でなくなり、例えば為替が大きく動いても二の次になりがちになるということだ。つまり、自分に与えられた目標達成に忠実なあまり、他への影響をあまり考慮しなくなってしまうことだ。

しかし、言い分もある。「われわれの持ち分は物価である。為替は市場および財務省の持ち分である。だから、むしろ為替のことを考慮して、物価に対するアプローチがぶれることのほうが問題だ。為替に影響が出ているのは知っているが、むしろ、われわれがそれを考慮するのは、職務忠実義務違反である。ましてや、為替を是正しようなどとすることは、セントラルバンカーののりを越えた、分不相応で傲慢である」ということだ。

これは、財務官僚に言わせると「庭先掃除だけするな」、ということである。極端に言えば、自分の庭先だけ塵ひとつなくきれいにするが、すべての落ち葉は隣の家の前に山積みとなっている。「お前はあほか」ということだ。

そして、財務官僚はさらにすすむ。「自分たちが考える日本経済の理想像に近づけるために、すべての仕事を自分にやらせてほしい。常に日本全体、そして日本の未来のこと、すべてを包括的に考えているのは財務省だけだ。だから全部財務省にやらせろ」、ということになる。

もうこうなると「傲慢で鼻持ちならないエリート主義」、ということになる。たとえ理想像こそ正しく、それを実現できる力を持っていたとしても、人々は反発し、彼ら彼女らには何もやらせないようにしようとする。

現実的には、このような財務官僚はもはや存在しない。20世紀の大蔵省時代、しかも例外的に一部見られた人物像だ。21世紀の現在、ほとんどの官僚は「庭先掃除マシーン」である。今は風圧で落ち葉を掃除するものが主流だか、ああいう感じで吹き飛ばして、その後、飛ばした落ち葉を箒で集めないのである。

学者も自分の専門にひきつけすぎ

実は、学者もまったく同じである。「学問の蛸壺化(サイロ化)」は言われて久しいが、学者の政策提言も同じ過ちに陥っている。すべて自分の専門にひきつける。たとえば、コロナ感染防止の専門家は経済の影響はまったく考えず、環境問題の専門家は持続性を主張しながら、経済の持続性を考えないといったケースも少なくない。

少しでもよく見ればすぐにわかるはずだが、経済の各分野だと素人にはわかりづらい。行動経済学者は、自発的に行動することを促す「ナッジ」という政策を薦める。だが、現場ではもっと素朴で力強い行動への影響、たとえば、ペーパーワークが面倒くさい、客も上司も行動をせかす、など他愛もない、しかし、強力な力に妨害される。だから、ナッジでは間に合わない。

もっと厄介なのは、EBPM(エビデンス・ベースド・ポリシー・メイキング)を強硬に主張する人々だ。確かに、雰囲気や感覚だけで政策を行うのは良くない。だが、一方でエビデンス(データに基づいた証拠)だかなんだか知らないが、データ、データ、分析、分析、エビエンス、と叫ばれると、実際はデータをとりやすい分野の政策ばかりが優先されて行われることになる。

しかし、別の意味で視野の狭い官僚や学者もいる。というよりもっと乱暴で強欲、と言ったほうがいいだろう。

それは、自分の政策提言を政治家に取り入れてもらいたい一心で「これをやればすべて解決します」と主張するアドバイザーたちである。

「リフレ派」という人たちはその典型で「すべてはデフレが悪い」、だからデフレを解消してインフレになれば、日本経済のすべての問題は解決します、といわんばかりにデフレ脱却をスローガン、おまじない、呪文として、政治家や人々を洗脳していった。

いまや、脱洗脳がインフレによって行われており、人々は、マインドコントロールから解けたものの「インフレだし、給料は上がらないし、いったいどうしたらいいんだ」と思考停止になっている。思考力も失われてしまったのだ。

MMTといわれる理論を主張する人たちも同じだ。というか、リフレを主張した人々が、もうリフレという麻薬が効かなくなったから、次の洗脳手段を繰り出してきた。MMT論者は、「財政をいくら出してもいいんだ」「インフレが起きたらとめればいい」「財務省がけちなのが諸悪の根源だ」「とことん財政出動して、それから考えればいい」と主張したが、インフレになったら、こうした人々はどこかに消えてしまった。

本当に悪い人は誰か?

ただし、本当に悪いのは彼らではない。一挙解決願望に満ち溢れた政治家と、世間の人々こそが問題なのだ。経済のひとつひとつの問題に向き合おうとせず、スケープゴートを作り、すべてそいつのせいにして、「そいつをやっつけるには、これだけやれば一挙解決」、ということを求めてきた政治家と人々が悪いのだ。

かつては「規制が全部悪い」「既得権益が全部悪い」、だから「ガラガラポン」して、「すべてをぶっ壊して新しい日本を作れ」、という論説(居酒屋談義)が、まじめに政界や新聞紙上を賑わせた。ガラガラポンというオノマトペとすらいえないなぞの言葉を真剣な顔で語っていた政治家は誰よりも喜劇的だったが、それが日本政治、政策マーケットの無策を生み出した。

しかし、ガラガラポン、という言葉は象徴的である。なぜなら、日本人、日本社会が、建設的に社会を作り上げる、という必要性、難しさを認識していないことを表しているからだ。現状行き詰まっている。この行き詰まりをとにかく打破すればなんとかなる、そう思っていることを示している。

しかし、実際には、それはただの愚痴だ。愚痴では何も変わらない。そして、社会には必ず既存の制度があり、既存のシステムがあり、それに応じて、人々は生活している、われわれ全員が既得権益者なのだ。

「社会のデザイナー不在」が日本の最大の問題

結局のところ、社会の設計。社会のデザイナー。これが日本にいないことが最大の問題なのだ。

社会システムをデザインするということが、社会を動かすためには、必要で、これは、要は試行錯誤の連続である。その中で、社会全体への影響をよく観察しながら、よりよい循環を作り出すキーとなる要素を見つけ出し、それを中心として、その周りの要素に修正を加えながら、目的に近づけていくのだ。

いまやこのような社会デザイナーが日本に存在しなくなってしまった。戦後、これは官僚の最大の仕事だった。そして、そのデザイナーのアドバイスを受け、それを実行する力強い政治家がいた。いまやどちらもいなくなった。

このデザインの骨格が出来上がり、社会の中で動いていく中で、環境変化に応じて修正が必要となる。その中で関係者の調整が必要になる。1945年から1955年まではデザイナーが主役、1960年以降は、調整役が主役となった。

しかし、いまや、政治家たちはこの調整もできなくなった。先日の総合経済対策も、「財務省が勝手に25兆円でまとめた」と自民党議員がいちゃもんをつけ、「29兆円に俺がしてやった、俺が押し込んだ」という手柄を自慢している世の中である。調整ではなく、自分の手柄、それも、スケープゴートの財務省をやり込めた、ということが手柄になり、実際に経済がよくなるかどうかはどうでもいい、そういう政治・政策業界になってしまったのである。政策の目的の不在である。

この調整、デザインができなくなった理由は何か。政治家、官僚のレベル低下といってしまえばそれまでだが、実は一番致命的なのは、経験不足である。

試行錯誤をするしか解決策はない

社会システムデザイン、社会における調整、これは経験がモノをいう。

官僚たちは、1945年から1955年まで、戦後の日本の社会システムを作り上げるという自負と気概があり、そしてそれが経験として残った。その当時の経験者は、いまやどこにもいない。

1960年代から70年代、政治家たちは利害調整に追われた。派閥同士の調整(戦い)にしのぎを削った。いまやまともな調整、ボトムアップで、すべての与党議員の利害調整を行い、纏め上げる政治家がいなくなった。経験者ですらいなくなってしまった。

そして、とどめは、官邸政治である。官僚から政策決定権を奪い、総理のリーダーシップを発揮するという名の下に、デザインどころか、調整すらできない、いやしようとすらしない、「勘違いリーダーシップ」を発揮するトップダウンの司令塔が出来上がってしまったのである。それは政治家も悪いが、それに乗じて小さい権力を握ろうとした官邸官僚も悪い。そして、ただ、ストレス発散で、すべてを官僚のせいにして、官僚をいじめる政治家に拍手喝采を浴びせた国民が悪いのだ。

こうして、21世紀、政策も政治も何もかもがうまくいかなくなってしまったのである。これが、日本の最大の問題なのだ。取り戻すには、うまくできなくても、みんなで力をあわせ、努力して、試行錯誤していくしかない。そして、そのエネルギーで自分たちの社会を立て直す。ゼロから作れるものではなく、今あるものを調整して、補修しながら、骨格まで直すところは、政治的リーダーシップを発揮し、デザイナーが試行錯誤する時間を、社会に許容させることが必要なのだ。

小幡 績(おばた せき) 慶應義塾大学大学院准教授
株主総会やメディアでも積極的に発言する行動派経済学者。専門は行動ファイナンスとコーポレートガバナンス。1992年東京大学経済学部首席卒業、大蔵省(現・財務省)入省、1999年退職。2001~2003年一橋大学経済研究所専任講師。2003年より慶應大学大学院経営管理研究学科(慶應義塾大学ビジネススクール)准教授。2001年ハーバード大学経済学博士(Ph.D.)。著書に『アフターバブル』(東洋経済新報社)、『GPIF 世界最大の機関投資家』(同)、『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)、『ネット株の心理学』(MYCOM新書)、『株式投資 最強のサバイバル理論』(共著、洋泉社)などがある。