市場原理主義という“怪物”に戦いを挑み続けた「日本人経済学者」がいた…! いま、宇沢弘文が注目を集めるわけ

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市場原理主義という“怪物”に戦いを挑み続けた「日本人経済学者」がいた…! いま、宇沢弘文が注目を集めるわけ(現代新書 2022.10.14)

佐々木 実 ジャーナリスト

戦後日本を代表する経済学者にして思想家、宇沢弘文(うざわ・ひろふみ)。

格差の増大や環境破壊など、資本主義が持つ「陰」の部分に1970年代から気づいていた宇沢は、「社会的共通資本」という概念をベースに、万人が幸福に暮らすことを目指す、新たな資本主義の枠組みを構築しようとしていた。

その思想は半世紀後の現在、再び大きな注目を集めるようになっている。

そもそも、我々はなぜこのような市場原理主義が幅を利かせるような世界に住んでいるのか。

資本主義の世界に暮らす我々の誰もが幸せに生きられるような社会はどうやって創り出せるのか。

今の時代だからこそ読むべき思想家を100ページ程度で語る「現代新書100(ハンドレッド)」シリーズの最新刊、『今を生きる思想 宇沢弘文 新たなる資本主義の道を求めて』から、「はじめに」をご紹介する。

「資本主義」という問い

資本主義のあり方をめぐって、世界で大きな潮流の変化が起きはじめている。

アメリカの主要企業の経営者をメンバーとするビジネス・ラウンドテーブル(BRT)が「株主資本主義からステークホルダー資本主義への転換」を掲げたのは2019年8月のことだった。株主の利益を極大化することだけを考えるのではなく、顧客や従業員、取引先、地域社会などにも配慮した経営に舵を切ると宣言したのだった。

翌年はじめのダボス会議でさっそく取り上げられ、「ステークホルダー資本主義」はビジネス界の合言葉のように広まった。

日本では、政府が長年にわたって株主資本主義を核とするアメリカ型資本主義をお手本に「改革」を進めてきた。アメリカ財界のステークホルダー資本主義宣言が影響を与えないはずはない。

岸田文雄首相が「新しい資本主義」を唱え、政府に「新しい資本主義実現会議」まで設けたのも、そうした流れの一環と捉えることができる。

株主の利益だけを追い求める企業活動は、所得格差の拡大を通じて、著しく不平等な社会をつくりだすことになった。環境への配慮を欠いた生産活動は、地球温暖化など深刻な環境問題をもたらしている。

そうした反省の気運が、ビジネスの現場で市場原理主義を主導してきた経営者にさえ生まれている。

ESG投資の爆発的な流行も、資本主義の見直しという文脈で理解できる。

ESG投資は、環境(Environment)、社会(Social)、企業統治(Governance)に配慮しているかどうかを基準に、投資先の企業を選別する。国連で2015年に採択されたSDGs(持続可能な開発目標)と理念を共有する投資活動といってもいい。

ESGやSDGsが国際的な支持を得ているのは、これまでの資本主義が環境問題をないがしろにしてきたことの裏返しである。

市場原理主義の教祖

いま起きている変化は、長らく世界を牽引してきた市場原理主義が急速に支持を失っていることを物語っている。

市場原理主義の教祖的存在だったのが、アメリカのノーベル賞経済学者ミルトン・フリードマン(1912─2006)である。

小さな政府、国営・公営事業の民営化、規制の緩和・撤廃を唱えるフリードマンは、1980年代以降の市場原理主義の潮流をつくりだした立役者である。ロナルド・レーガン大統領のブレインとなり、イギリスのマーガレット・サッチャー首相からも支持された。狭い学界ではなく、現実の政治に働きかけることで、世界最強のインフルエンサーとなったのである。

フリードマンの特徴は、市場機構への絶対的な信頼と、政府機能(公的部門)への徹底した不信だ。彼の資本主義観は『資本主義と自由』(日経BP社)のつぎの文章によくあらわれている。

「市場が広く活用されるようになれば、そこで行われる活動に関しては無理に合意を強いる必要がなくなるので、社会の絆がほころびるおそれは減る。市場で行われる活動の範囲が拡がるほど、政治の場で決定し合意を形成しなければならない問題は減る。そしてそういう問題が減れば減るほど、自由な社会を維持しつつ合意に達する可能性は高まっていく」

民主主義的な意思決定を、市場での取引が代替できるという見解である。市場領域をひろげていけば、「社会の絆がほころびるおそれは減る」とフリードマンは言っているが、むしろ、あらゆる領域を市場化すれば、「社会の絆」に頼る必要などなくなるという考え方である。

「市場=社会」がフリードマンの理想社会であるようだ。

フリードマンに恐れられた日本人

市場原理主義の思想潮流が世界を覆う前、1960年代からフリードマンと直接対決を繰り広げていた日本人がいたことはあまり知られていない。本書の主人公、宇沢弘文(1928─2014)である。

宇沢は1964年にシカゴ大学の教授に就任し、市場原理主義の総本山「シカゴ学派」の領袖であるフリードマンと同僚になった。市場原理主義が世界を席巻するよりずっと前から、フリードマンに面と向かって異議を唱えていたのである。

シカゴ大学でフリードマンと対峙していたころ、宇沢はアメリカ経済学界で一二を争う若手理論家とみなされていた。フリードマンは著名ではあったが、最先端の理論づくりの現場にかぎれば、16歳も若い宇沢のほうが勢いがあり影響力をもっていた。

アメリカ経済学界での評価が絶頂にあるとき、宇沢はベトナム戦争に異を唱えて突然、アメリカを去った。フリードマンは、帰国後の宇沢が日本語で書いた文章も英語に翻訳させて丹念にチェックしていた。宇沢がフリードマンの学説を批判することに、過剰なほど神経を尖らせていたのである。

アメリカを去ったあと、宇沢はアメリカの経済学者についてこんな総括をしている。

「事実、アメリカの経済学者は、市場機構について一種の信念に近いような考え方をもっているともいえる。利潤追求は各人の行動を規定するもっとも重要な、ときとしては唯一の動機であると考え、価格機構を通じてお互いのコンフリクトを解決することが最良の方法であるという信念である。新古典派理論はこのような信念を正当化するものにすぎないともいえるのであって、理論的な帰結からこのような信念が生れるのではない。この現象はとくにいわゆるシカゴ学派に属する人々について顕著にみられるが、これは必らずしもシカゴ学派に限定されるものではなく、広くアメリカの経済学者一般に共通であるともいえよう」(『自動車の社会的費用』岩波新書)

宇沢が指摘しているのは、市場原理主義的な傾向はフリードマン率いるシカゴ学派に顕著にみられるけれども、しかしそれは、アメリカの経済学者一般に共通している信念だということである。フリードマンひとりを批判して済む問題ではないということだ。

社会的共通資本の思想的源流

宇沢は、半世紀も先取りして、行き過ぎた市場原理主義を是正するための、新たな経済学づくりに挑んだ。

すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できる。そのような社会を支える経済体制を実現するため、「社会的共通資本の経済学」を構築した。

この小著では、経済学の専門的な話はできるだけ避け、宇沢が「社会的共通資本」という概念をつくりだした経緯や思想的な背景に焦点をあててみたい。

宇沢が環境問題の研究を始めたのは半世紀も前であり、地球温暖化の問題に取り組んだのは30年あまり前からだった。先見の明というより、問題を見定める際の明確な基準、つまり、思想があったからこそ、いち早く問題の所在に気づくことができたのである。

不安定化する世界

ロシアがウクライナに侵略して戦争が始まったとき、欧州のある金融機関が、武器を製造する企業への投資をESG投資に分類し直すという動きがあった。

ふつう、ESG投資家は人道主義の観点から、軍需産業への投資には抑制的だ。しかし、アメリカなどがウクライナに武器を供与する現実を目の当たりにして、「防衛産業への投資は民主主義や人権を守るうえで重要である」と態度を豹変させたのである。

ESGやSDGsに先駆けて「持続可能な社会」の条件を探求した宇沢なら、このようなESG投資を認めることは絶対にあり得ない。思想が許さないからだ。

「ステークホルダー資本主義」「ESG投資」「SDGs」を叫んでみたところで、一本筋の通った思想がなければ、結局は換骨奪胎され、より歪な形で市場原理主義に回収されてしまうのがオチだ。

資本主義見直しの潮流が始まった直後、世界はコロナ・パンデミックに襲われ、ウクライナの戦争に直面した。危機に危機が折り重なって、社会は混沌の度を深めている。

宇沢の思想に共鳴するかしないかが問題なのではない。

生涯にわたって資本主義を問いつづけた経済学者の思考の軌跡は、かならずや混沌から抜け出すヒントを与えるはずである。

佐々木 実 ジャーナリスト
1966年、大阪府生まれ。91年、大阪大学経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社。東京本社経済部、名古屋支社に勤務。95年に退社し、フリーランスのジャーナリストとして活動中。著書『市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』(小社刊、『竹中平蔵 市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』として文庫化)で、第45回大宅壮一ノンフィクション賞と第12回新潮ドキュメント賞をダブル受賞。『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』(小社刊)で第6回城山三郎賞と第19回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞をダブル受賞した。

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