「民のかまど」物語
「日本書紀」と「古事記」に『民のかまど』の物語が記載されています。聖帝(ひじりのみかど)と呼ばれる仁徳天皇の治世のエピソードです。
天皇は、即位後、高殿から国を見渡し、民家のかまどに煙が立っていないのを見て、「これは民が貧しいからだ」とお考えになり、その後3年間、課税と労役を免除され、自らは質素な生活をされました。その結果、民は豊かになり、宮は茅葺屋根が破れ、衣は風雨で濡れ、夜は星空が見えました。それでもさらに3年間課税をされませんでした。6年の歳月が過ぎ、天皇はようやく課税と労役を科され、宮殿の修理を行われました。民は競って修復を手伝いました。
仁徳天皇(5世紀前半頃)は、応神天皇の皇子、第16代天皇、名は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と言います。即位して都を難波高津宮に移しました。その頃、難波津は、大和朝廷が中国王朝および朝鮮諸国と交流する門戸として重要な役割を担っていました。
即位して4年目、天皇が高台(たかどの)に登り四方を見て仰いました。
「国の中にかまどの煙が出ていない。民が貧しくて炊飯できるほどの食糧が家にないのではないか。こういう話を聞いたことがある。『良き君主の世には、人々は歌を歌い、家々もやすらか』という歌が古の世にあったと。今、私は国政にあたって3年になった。歌声は聞こえてこない。煙もまったく登っていない。つまりは、五穀が実らず、民は窮乏しているのだ。都がこの有様だ、地方はもっとひどいであろう。」
四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰「朕登高臺以遠望之、烟氣不起於域中、以爲、百姓既貧而家無炊者。朕聞、古聖王之世、人々誦詠德之音、毎家有康哉之歌。今朕臨億兆、於茲三年、頌音不聆、炊烟轉踈、卽知、五穀不登、百姓窮乏也。封畿之內、尚有不給者、況乎畿外諸國耶。」
「これから3年の間、すべての民の課税と労役を免除し、民の苦しみを和らげる」と詔されました。
この日より、天皇は衣服が傷んでも新調されず、食事も質素にされ、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理されず、風や雨がその隙間に入って衣服を濡らしました。星の光が破れた屋根の隙間から漏れて、床を照らしました。
この後、天候も季節に従い豊作となり、3年の間で民は豊かになりました。民は日々の暮らしを謳歌し、炊飯の煙も立ち上るようになりました。
三月己丑朔己酉、詔曰「自今以後至于三年、悉除課役、以息百姓之苦。」是日始之、黼衣絓履、不弊盡不更爲也、温飯煖羹、不酸鯘不易也、削心約志、以從事乎無爲。是以、宮垣崩而不造、茅茨壞以不葺、風雨入隙而沾衣被、星辰漏壞而露床蓐。是後、風雨順時、五穀豐穰、三稔之間、百姓富寛、頌德既滿、炊烟亦繁。
天皇は高台から遠くを見渡すと、煙がたくさん登っていました。
この様子をご覧になった天皇は、かたわらの皇后に申されました。
「私は豊かになった。心配することは何もない。」
皇后は答えて言いました。
「どうして豊かになったと言えるのですか。」
天皇は答えました。
「かまどの煙が国に満ちている。民は豊かになっている。」
皇后はまた言いました。
「宮垣は崩れ、殿屋は破れているのに、何を豊かだというのですか。」
「よく聞けよ。天下を治める君主が立つのは民のためだ。政(まつりごと)は、民を本としなければならない。だから古の聖王(ひじりのきみ)は一人でも飢え凍えるときは、自らを省みて責めたものだ。いま、その民が富んでいるのだから、私も富んだことになるのだ。」
七年夏四月辛未朔、天皇、居臺上而遠望之、烟氣多起。是日、語皇后曰「朕既富矣、更無愁焉。」皇后對諮「何謂富矣。」天皇曰「烟氣滿國、百姓自富歟。」皇后且言「宮垣壞而不得脩、殿屋破之衣被露、何謂富乎。」天皇曰「其天之立君是爲百姓、然則君以百姓爲本。是以、古聖王者、一人飢寒、顧之責身。今百姓貧之則朕貧也、百姓富之則朕富也。未之有百姓富之君貧矣。」
その頃、諸国の民からこのような申し出がありました。
「課税と労役も免除になってもう3年になります。宮殿は朽ち、蔵はカラになっています。民は豊かになり、道端の落し物をさらっていく者もおりません。里ではみな家族を持ち、家に蓄えが充分できるほどになりました。我々が税を払わず、宮殿を修繕しなければ、罰があたってしまいます。」
それでもなお、天皇は税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。
秋八月己巳朔丁丑、爲大兄去來穗別皇子、定壬生部。亦爲皇后、定葛城部。九月、諸國悉請之曰「課役並免既經三年、因此以、宮殿朽壞府庫已空、今黔首富饒而不拾遺。是以、里無鰥寡、家有餘儲。若當此時、非貢税調以脩理宮室者、懼之其獲罪于天乎。」然猶忍之不聽矣。
6年の歳月が過ぎ、天皇はようやく課税と労役を科され、宮殿の修理を行われました。民は督促もされないのに、老いた人を助け、幼い子を抱え、材木を運び、土を入れた篭を背負い、昼夜をいとわず競って働きました。程なくして宮殿は落成しました。それ故に、仁徳天皇は現在まで「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれ、讃えられています。
十年冬十月、甫科課役、以構造宮室。於是、百姓之不領而扶老携幼、運材負簣、不問日夜、竭力競作。是以、未經幾時而宮室悉成。故、於今稱聖帝也。