量子宇宙の創生と宇宙の波動関数の厳密な計算―無境界仮説とトンネル仮説の長年の論争解決に向けた大きな一歩―(京都大学 公開日 2024年10月17日)
京都大学 基礎物理学研究所
概要
現代宇宙論では、宇宙が無から量子効果によって創生されたという考えが活発に研究されています。しかし、その詳細に関する二つの有力な仮説「無境界仮説」と「トンネル仮説」のどちらが正しいか、長年論争が続いてきました。
松井宏樹 基礎物理学研究所特定研究員、岡林一賢 同特定研究員、本多正純 理化学研究所数理創造プログラム上級研究員、寺田隆広 名古屋大学素粒子宇宙起源研究所特任助教らの研究チームは、人為的に仮説を選ぶ事無く、宇宙の波動関数を第一原理から計算しました。従来の解析では数学的な曖昧さが残りますが、我々はリサージェンスという手法でこの曖昧さを解消しました。最終的に、宇宙の波動関数は無境界仮説ではなくトンネル仮説に予言されるものになることを、一定の仮定の下で厳密に示しました。これらの結果は、無境界仮説とトンネル仮説の長年の論争の解決に向けた大きな一歩となることが期待されます。
本研究成果は、2024年10月3日に、国際学術誌「Physical Review D」にオンライン掲載されました。
1.背景
現代宇宙論における重要な問いの一つは、「私たちの宇宙がどのようにして誕生したのか」という問題です。このような深遠な疑問に対し、現代宇宙論では、時空のない無から量子効果により宇宙が創生したという仮説が有力視されています。この「量子宇宙創生」を記述する代表的な枠組みとして、1980年代に提案された無境界仮説とトンネル仮説と呼ばれる2つの仮説があります。HartleとHawkingによって提案された無境界仮説は、宇宙の量子状態を記述する宇宙の波動関数が、時間を虚数にしたユークリッド型時空を経路とする量子重力の経路積分注1)によって得られるという仮説です。一方、Vilenkinによるトンネル仮説は、宇宙が量子力学的なトンネル効果により創生したという仮説です。これら2つの仮説の正当性については、長年に渡って論争が繰り広げられてきました。例えば無境界仮説の場合、量子重力のユークリッド型経路積分では作用が正定値性を持たない点などが批判されてきました。他方でトンネル仮説に関しては、限定的な状況でしか示されておらず決め手に欠けていました。
2017年、Turokらの研究グループは、時間を虚数とするユークリッド型時空ではなく時間を実数のまま扱うローレンツ型時空を境界条件とする量子重力の経路積分法を提案し、このような問題の現代的な定式化を行いました。このローレンツ型経路積分法は、収束する可能性のある経路積分を用いてWheeler-DeWitt方程式注2)の解に一致する波動関数を導出することができるため、量子重力の厳密な経路積分法として議論されています。しかし先行研究では、経路積分を物理的解釈が明確な形に書き換える際に、考えている物理的パラメータ領域がストークス線注3)と呼ばれる領域に位置するために数学的な曖昧さが生じることで、最終的な物理的解釈にも曖昧さが残っている状況でした。
2.研究手法・成果
本研究では宇宙の一様等方性を仮定し、ローレンツ型経路積分法を用いて、量子宇宙論における無境界仮説とトンネル仮説を再評価しました。特にリサージェンス理論注4)と呼ばれる数理的な手法を適用することで、ローレンツ型経路積分に基づく量子宇宙の波動関数を再評価しました。まず物理的パラメータをストークス線外の領域にも拡張してローレンツ型経路積分を詳細に解析し、ストークス線に向かう極限を注意深く議論することにより、ローレンツ型経路積分における曖昧さを解消しました。これにより、「無境界波動関数」ではなく、「トンネル波動関数」が宇宙の波動関数としてより適切であることを厳密な形で示すことができました。さらに、ストークス線に由来する曖昧さが、量子重力効果の摂動展開(注4を参照)の総和を取る際に生じる曖昧さと正確に相殺されることを明らかにしました。これにより、リサージェンス理論が量子宇宙論においても有効であることを確認しました。本研究は、ローレンツ型量子宇宙論の枠組みにおける宇宙の波動関数をリサージェンス理論を用いて一貫して導出できることを示し、宇宙の波動関数を再評価する新たな方法を提案しました。
3. 波及効果、今後の予定
本研究では、ローレンツ型経路積分法を用いた量子宇宙論において、無境界仮説とトンネル仮説をリサージェンス理論の観点から再評価し、以下の重要な成果を得ました。
・宇宙の波動関数の厳密な定式化:従来のローレンツ型経路積分の解析における曖昧さを複素変形により解消し、宇宙の波動関数が不定性を伴わずに決定できることを示しました。これにより、宇宙の波動関数は無境界仮説ではなくトンネル仮説に予言されるものになることを厳密に示しました。
・リサージェンス理論の適用可能性:量子重力効果の摂動展開において総和を取る際に生じる曖昧さが、非摂動効果に深く関連するストークス線由来の曖昧さと正確に相殺されることを、量子宇宙論の枠組みで確認しました。これにより、リサージェンス理論が量子宇宙論においても適用可能であり、宇宙の波動関数の導出において一貫した結果を得られることがわかりました。
これらの結果は無境界仮説とトンネル仮説の長年の論争の解決に向けた大きな一歩となることが期待されます。
本研究にはいくつかの課題も存在します。例えば、量子宇宙創生における波動関数の導出が特定の仮定に依存しています。特に本研究では、単純化されたミニ超空間モデル(一様等方な宇宙)を主に扱いましたが、現実的な解析を行うには、より複雑な宇宙モデルや設定においても同様の解析を行う必要があります。
4.研究プロジェクトについて
本研究プロジェクトは以下の助成金による支援を受けて行われました。
・JSTさきがけ「初期宇宙解明に向けた量子アルゴリズム開発基盤の創成」 (研究代表者: 本多正純, 課題番号: JPMJPR2117)
・科研費学術変革領域研究(A)「量子情報で拓く時空と物質の新しいパラダイム」 (領域代表者:高柳匡) D01班 :「場の量子論のダイナミクスへの量子情報的アプローチ」 (研究代表者: 西岡辰磨, 課題番号: 21H05190)
・科研費基盤研究(B) 「テンソルネットワーク法が解き明かす場と時空のダイナミクス」 (研究代表者: 加堂大輔, 課題番号: 22H01222)
・科研費若手研究 「量子重力理論基づく創成期宇宙の理論的検証」 (研究代表者: 松井宏樹, 課題番号: 23K13100)
・科研費特別研究員奨励費「量子宇宙創成における原始密度揺らぎと量子重力理論の統合的な研究」 (研究代表者: 松井宏樹, 課題番号: 22KJ1782)
・科研費特別研究員奨励費「重力場に起因する量子的な熱輻射の熱源解明」 (研究代表者: 岡林一賢, 課題番号: 23KJ1162)
<用語解説>
注1)経路積分 Feynmanによって提案された、演算子形式に並ぶ量子力学の主な定式化の1つ。演算子形式では物理量を演算子(行列の一般化のようなもの)と状態ベクトルを用いて表すのに対して、経路積分形式では物理量を有り得る全ての可能性(経路)について足し合わせた超多重積分で表します。この積分のことを経路積分と呼びます。
注2) Wheeler-DeWitt 方程式 量子重力理論を演算子形式で議論する際に、宇宙の波動関数が満たすべき基礎方程式の一つです。通常の量子力学におけるシュレーディンガー方程式に対応します。
注3)ストークス線 経路積分を運動方程式の解の周りからの寄与で近似する際に、寄与する運動方程式の解が一意に定まらないパラメータ領域。パラメータを変化させると摂動展開の形が急激に変化するストークス現象と密接に関連する。
注4)リサージェンス理論 物理学ではしばしば複雑な問題を解く際に、まず代わりに単純化した状況を考え、そこから少しずつ複雑さを取り入れることで元の問題の答えを近似する、摂動展開という手法が使われます。しかし元の問題に十分近い状況を摂動展開で素朴に計算しようとすると、しばしば収束しない級数が現れることが知られています。リサージェンス理論は、収束しない級数をうまく足し上げることで意味のある答えを引き出す標準的な手法の1つで、様々な物理や数学の問題に応用されてきました。
<研究者のコメント>
「私が知る限り、本研究はリサージェンス理論を量子宇宙論に本格的に応用した最初の研究です。私自身はリサージェンス理論を他の色々な物理に応用してきた研究者ですが、今回リサージェンス理論を宇宙の始まりという究極の問題に応用して物理的な解釈につなげることができて、とても楽しかったです。」(本多正純)
「私は、量子宇宙論を専門的に研究していますが、本研究はローレンツ量子宇宙論という新しい枠組みの到達点とも言え、数学的に矛盾のない宇宙の波動関数の解析手法を与えました。また結果として、妥当な仮定のもと無境界仮説とトンネル仮説の長年の論争に決着がつけられたことはとても良かったと思います。」(松井宏樹)
「リサージェンス理論を量子宇宙論に応用できたこと自体個人的には面白かったのですが、それに加えて宇宙の始まりに対して新たな解釈を得ることができて興味深かったです。今回明らかにしたこと以外にも取り組むべきことがあるので今後の進展も楽しみです。」(岡林一賢)
<論文タイトルと著者>
タイトル:Resurgence in Lorentzian quantum cosmology: no-boundary saddles and resummation of quan tum gravity corrections around tunneling saddles(ローレンツ型量子宇宙論におけるリサージェンス:無境界鞍点とトンネル鞍点周辺における量子重力補正の総和)
著 者 :本多正純、松井宏樹、岡林一賢、寺田隆広
掲 載 誌 :Physical Review D DOI:10.1103/PhysRevD.110.083508