護憲派の巨頭・樋口陽一さんが次世代を挑発する「なぜ反乱しない」「9条に恥じない国を」【ロングインタビュー】

発足した民間立憲臨調で代表世話人を務め、記者会見する樋口さん(左から2人目)=2016年1月19日、東京・永田町の衆院第1議員会館で 政治・経済

護憲派の巨頭・樋口陽一さんが次世代を挑発する「なぜ反乱しない」「9条に恥じない国を」【ロングインタビュー】(東京新聞 2024年4月2日 06時00分)


<著者は語る>
日本を代表する憲法学者・樋口陽一さんが90歳を前に回顧録『戦後憲法史と並走して 学問・大学・環海往還』を語り下ろした。今は亡き盟友で、俳優の菅原文太さんや作家の井上ひさしさんとの交遊も交え、焦土から立ち上がった「この国のかたち」を世界水準の憲法学で意義づけた人生を振り返っている。銃後の「少国民」から長じて護憲派の巨頭と言われる樋口さん。「先行世代を押しのけて1歩でも前に進んでほしい。なぜ反乱しないのか」と私たちを挑発する。(中村信也)

暴力教師に殴られ、空襲を逃げ延びた

樋口さんは1934年に仙台市で生まれ、日本が米英などに宣戦布告する41年に国民学校に入学した。戦地から帰ってきた暴力教師に級長としての連帯責任で殴られるなど、戦時教育を受けた。沖縄戦の組織的な戦闘が終わる45年6月23日の前日、辞令が下った。「国民学校学徒隊」の「副小隊長」を命じるというものだ。担任教師が「小隊長」で、級長が「副小隊長」だった。死者1399人とされる7月の仙台空襲では、弟と一緒に一晩じゅう逃げた。

「夜が明けて国民学校に行くと、火葬場に向かって丸太ん棒のような黒い死体を載せたトラックが走っていくのを見ました」

旧制中学からかわった新制の仙台一高に最初の1年生として入学したのが50年。菅原文太さんは1つ年上で別の旧制中学から移ってきていた。井上ひさしさんは同期生。ただ、交遊が始まったのは卒業したあと。

人間尊重は文ちゃん、ひさし君の生き方そのもの

「旧制中学を経た文ちゃんとか1年上はもう大人。中には色街に行く生徒もいた。彼らとは違い私らは子どもでした。一方の井上はカトリックの養護施設と高校を往復する毎日で授業中だけが彼の自由時間。授業中に映画に行くのを教師が認めた話が有名ですが、変わったヤツがいるなというくらいでした」

井上さんとは直木賞をとった1972年、内輪のお祝いを開いてから交遊が始まった。文太さんとも映画「トラック野郎」シリーズの70年代からだ。生徒会執行委員長を務め、山岳部でならした樋口さんと一緒に2人は82年、母校の文化祭にそろい踏みでノーギャラ講演をしている。

「文ちゃんとはね、あまりに日常的に、とくに晩年はいつも接していました」と、棚に飾った写真を指さした。40代の文太さん、井上さんら同窓生と談笑しているカットだ。傍らには「惜別」という言葉と文太さんの肖像をあしらったラベルのワイン。文太さんが亡くなったとき、お別れ会で配られたものだ。

文太さんは亡くなる直前の2014年、米軍の辺野古新基地の是非が焦点となった沖縄県知事選で「新基地をつくらせない」と公約した翁長雄志さんの応援に駆けつけた。《政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは…、これは最も大事です。絶対に戦争をしないこと!》と演説すると、聴衆からうおーっとどよめきが起こった。翁長知事誕生の決定打になったと言われる言葉だった。その年、樋口さんは1月の都知事選の細川護熙元首相の応援など、各地で文太さんと行動を共にしていた。

「一人一人かけがえのない個人、全体のために犠牲にするわけにはいかない個人を大切にする。そうした意味での人間尊重。それが、文ちゃん、ひさし君の生き方そのものだったと思いますね」

かけがえのない「個人」を「全体」のいけにえにしてはいけない

「個人」を重んじ「国家」との関係を究めた樋口憲法学は、盟友2人の生き方とも結び合っていた。井上さんは2010年、文太さんは2014年に逝った。日本国憲法の肝心なところは「個人の尊重」を定めた13条だと言ってきた樋口さん。

「人間尊重などと言いますが、単なる『人間』という言葉は要注意です。全体のためにいけにえを差し出すことこそが人間的だ、という考えもありますから。戦争中の特攻隊などは、そういうふうに美しく飾られました。だから、代替物のない個人というところに突き詰めてこそ、初めて意味がある。それを本気で認めるかどうか。その一点で、憲法観の基本が分かれると思います」

だから、現行憲法が「個人として尊重」としているところを、自民党の改憲案が「人として尊重」としている点を危ぶむ。個人が単なる人的資源におとしめられかねないからだ。

憲法に「自衛隊」書き加えたら、9条が失効する恐れ

ロシアのウクライナ侵攻から2年余り、イスラエルのガザ地区攻撃も収まらない。平和主義の日本国憲法をもつ日本に何ができるか?

「日本国憲法がなければ、やらかしたに違いないことへの抑止力が、確かにあった。あからさまな直接的な軍事行動を控えることができたと思います。ただ、それを奇貨として、血を流さずに復興支援という形で戦後の果実だけを取る、というさもしい行為に、その抑止力を働かせることができるか。復興支援には関わるべきだが、9条をもつ国として恥をかいてはいけない」

先の大戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争で兵たん基地として利益を得た日本。湾岸戦争で「海外派兵」の道を開き、アフガン戦争、イラク戦争では「テロとの戦い」という米国の論理に引きずられた。憲法は幅広い議論のないまま時の政権によって解釈を変えられ、大規模災害が続くなかで自衛隊への信頼感も高まった。自衛隊を憲法に位置づけようという主張も説得力を増している。

「軍という存在は、敗戦までの帝国憲法でも明記されていませんでした。『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』と統帥権が書かれているくらい。もちろん、一国が独立すれば軍を持つのは当たり前という前提はありました」

樋口さんは、自衛隊の存在を憲法に書き加えることの法的な意味について理解が足りないーと指摘してきた。基本的な法の原則の1つに「後(のち)の法は先の法を破る」があり、ある法規範に、それまでと違うことを書き加えれば、前からあるルールは失効するか意味を変えるという原則だ。つまり、9条の条文を削らないまま自衛隊の存在を書き加えれば、「戦争放棄」「戦力不保持」という現在の9条が失効する恐れがあるわけだ。

9条なければ今ごろ世界中に派兵してる

「大事なことは、自衛隊の『専守防衛』ということ。この言葉遣いは日本社会に定着したはずです。自衛隊を外向けに使わないというコンセンサスは、戦後のいかなる政府も正面からは破ることができていない。9条がなかったら、今ごろは世界中に日本国軍を派遣しているのではないか。米国はいろいろなことを、いろいろな文脈で持ちかけてくるわけですから」

憲法とは「constitution(コンスティテューション)」(英語、仏語)の訳語として明治時代に定着したものだ。語源は「共に組み立てる」で、constitutionには憲法のほか、構造、組織、体格といった訳語も当てられる。まとめて言えば憲法とは「国のかたち」ではないか。そうすると作家・司馬遼太郎さん(1923〜96年)の『この国のかたち』というエッセーが思い浮かぶ。樋口さんは、井上さんの紹介で1980年に司馬さんと知り合って交友を深め、いくつかの対談などを行った。

「司馬さんの『芯』の部分は理解されていないのではないですか。高度成長の日本の凱旋(がいせん)歌を歌ったのが司馬さんだという見方は、本当に見当違いなんです。日本人を勇気づけてくれた存在だなどとよく言われますが、司馬さんの目ははるかにシビアでした。『この国のかたち』など、書いたものにはっきり出ています」

樋口さんは航空便で購読している仏紙「ル・モンド」に92年に載った司馬さんのインタビューを引く。

《(敗戦の)1945年に私は自問したのですが、ドイツは、自分たちのゲルマン性を否定してヨーロッパというアイデンティティーをより強く求めない限り、ヨーロッパ社会にとどまることができないだろうと思いました。日本はといえば、その島に閉じこもって他の国の人びとが忘れてくれるのを待っているのです。》

《ヨーロッパには、行動するユマニスムの伝統があります。ここにはありません。……私は自分の考えを拡声器に乗せられたくないのです。》(樋口陽一著『時代と学問と人間と』=2017年、青林書院=から)

「司馬さんは公(おおやけ)という言葉が好きでした。公は、国家を意味するラテン語res publica(レース・プブリカ=『公共のもの』という意味)と通じます。公だから私事ではない。日本という国は江戸時代の幕藩体制までは『公儀』という言葉があったように、幕府も藩も殿様の私有財産ではなかった。公のものだからこそ、殿様が国を私物化するような殿様に値しない人物であれば、忠義な家臣が黙っていない。”主君押し込め”で引退させました」

同世代・上皇に共感「戦時体験の結晶が沖縄への思いでは」

日本国憲法は1条から8条まで天皇のことを定めています。日本国民の責任としては、天皇に値しない天皇は押し込めなくてはいけない? 

「そうですね。平安時代も戦国時代も、それを実力者が行いました。まともな人間社会は何かしら『抽象的な正しいもの』を欲しがるわけです」

今の上皇さまは樋口さんの1歳上で時代体験として共通することが多い。共感を持ってませんか?

「あります。上皇の戦時体験の結晶が、沖縄に対する思いじゃないでしょうか」

「国民学校に通っていた私は、『日本が負けたら軍艦に載せられて太平洋に突き落とされる』と先生から聞かされ、死ぬことを覚悟しました。それが戦時教育。上皇も、昭和天皇の皇太子として相当な覚悟があったのではないでしょうか」

樋口さんは、1975年に日本学士院賞を昭和天皇の臨席のもとで受けた。学士院の役員を2期6年務め、新会員が天皇のお茶の席に呼ばれる際に数十回同席した。樋口さんの書いたものや発言は宮中でも読まれていたはずだが、天皇から憲法や社会情勢についての質問はなかっただろうか?

「一切お話になりませんでした。学士院の役員は侍従的な立場ではありませんから。昭和天皇の時は横長のテーブルで天皇と話すのは主賓くらい。平成の天皇(今の上皇)になってからは4人がけのテーブルを陛下が回って言葉を交わすようになりました。ある種の『宮廷革命』があったのでしょう」

いまの若手議員たちは従順なサラリーマンのよう

若い世代にメッセージを。

「それぞれの世代について言えることだけど、自分より先行している世代を押しのけて1歩でも前に進んでほしい。先行世代から何か利益が回ってくるのを待ってる気配がある、特に政治の世界では。嘆かわしいことだと思います。なぜ反乱しないのか。従順なサラリーマンのようなイメージじゃないですか、いまの若手議員たちは」

戦後の首相たち「三角大福中」のなかで「大平正芳の歩んだ軌跡を遺産としなければいけない」と話す。

「大平の派閥(宏池会)を継いだことの意味を、岸田文雄首相は少しでもまっとうに考えてほしいと思います」

※回顧録は樋口陽一著『戦後憲法史と並走して 学問・大学・環海往還』(岩波書店)。コロナ禍の2020年から21年に教え子の蟻川恒正・日大教授を相手に東京で6回語り下ろした。井上ひさし・樋口陽一著『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫)は、敗戦の少国民体験を共有する2人が熱く語り合っている。