「103万円の壁」引き上げって意義ある? 税収に穴、格差対策に課題 「庶民の生活を政争の具にするな」(東京新聞 2024年11月7日 12時00分)
額面年収が一定額を超えると手取りが減るラインを「年収の壁」と呼ぶ。このうち所得税が発生する「103万円の壁」が話題になっている。石破茂政権のキャスチングボートを握る国民民主党が、この金額を75万円引き上げ、178万円にするよう主張しているからだ。引き上げにどの程度の意義があるのか。市民は「壁」をどう受け止めているのか。(太田理英子、山田祐一郎)
「手取り増や人手不足の解消につなげる」と国民民主
103万円は、憲法の生存権を反映した「基礎控除」の48万円と、給料をもらう全ての人に適用される「給与所得控除」の最低額55万円の合計に当たる。パートやアルバイトが103万円を超えないよう勤務時間を調整する「働き控え」を招いていると指摘されてきた。
「103万円の壁」への関心が高まったきっかけが、10月の衆院選で、公示前から議席を4倍に増やした国民民主の躍進だ。国民民主党は103万円を178万円まで引き上げ、手取り増や人手不足の解消につなげるとする。少数与党の自民、公明両党が国民民主の主張と折り合えるのかが注目されている。
「所得税を気にせず働けたほうがいい」
街の人は議論をどうみているのか。東京都北区の十条銀座商店街で聞くと—。
「引き上げを期待している」と話すのは、スーパーで勤務するパート女性(67)=埼玉県川口市。現在、103万円を超えないように勤務先が労働時間を調整してくれている。だが、最低賃金が上昇する中、勤務先も人件費の捻出に苦しんでおり、慢性的な人手不足だ。「25年前は時給770円だったけど今は1000円超。時代に合わせて見直してほしい」
事務職のパート、辻渚さん(39)=さいたま市=は子どもが就学前でもあり、勤務時間をセーブしている。「所得税を気にせず働けたほうがいい」としつつ「仕事が好きなので、超えることがあっても仕方ないかな」とポツリ。
税収減には「無駄な公共事業など削れるところある」
雇用主からは窮状を訴える声も。和菓子店の女性店主(54)は「引き上げが遅すぎる」と嘆く。祝い事などのある書き入れ時の秋冬に備えて、夏にパートの勤務時間を抑制している。「130万円程度でもいいので、早く見直して」
パート7人を抱える食料品店経営の岩波建光さん(77)も「従業員からもっと働きたいという声がある」と引き上げを求める。引き上げに伴い税収が減る問題については「無駄な公共事業など、削れるところはいくらでもあるはずだ」と語気を強めた。
「30年近く103万円、実態に合っていない」
「こちら特報部」は、アルバイトをする若者にも意見を聞いた。
企業で二つのバイトを掛け持つ大学院生、木南俊樹さん(23)=埼玉県坂戸市=は「年末に向け、今の時期は90数万円を超えないか気を付けている」と話す。奨学金返済もある中で「103万円の壁」のため、パソコンなど研究に必要な高額の出費にためらうこともあったといい、「引き上げに興味を持っている。30年近く103万円のままなのは実態に合っていない」と強調する。
川崎市の大学4年、野与剛さん(23)も「より働きやすくなって手取りが増える」と利点を挙げる。
ただ「年収の壁」には所得税以外に、社会保険料の支払いが発生する「106万円の壁」や「130万円の壁」といった「社会保険上の壁」もあるのに、議論不足だと感じる。「現状ではきちんと全体の制度設計ができていない。社会保険との兼ね合いなど、今後問題が生じかねないのでは」
103万円を超えても「影響は少ない」
103万円からの引き上げは、働く人にどれほどの効果があるのか。現在、年収が103万円を1万円超えると課される所得税は500円弱。社会保険労務士の井戸美枝氏は「現状でも社会保険上の壁と比べて、越えた場合でも影響は少ない」と説明する。
社会保険上の壁は、勤務先企業の規模などに応じて年収約106万円や約130万円を超えると配偶者の扶養を外れて社会保険料負担が生じ、手取りが大きく下がる「壁」だ。こちらも労働抑制につながっているとされる。
岸田文雄前政権は昨年、社会保険上の壁を越え、手取りが減少した労働者に手当を出す企業に補助金を出す施策を始めた。だが2025年度末までの暫定的措置。井戸氏は「補助金終了後にどうなるか分からず、事業主が補助金を活用したいという話は聞かれない。効果は疑問だ」と話す。
「物価上昇率である10%程度の引き上げが妥当」と専門家
所得税が課税される年収を引き上げる場合は、社会保険料を支払い、配偶者控除が受けられなくても手取りが残る程度ではないと、効果が薄いとみる。「社会保険の壁のすぐ先に新たな壁があるようだとその間で働くメリットがない」
では、75万円という引き上げ幅に問題はないのか。国民民主の玉木雄一郎代表は、現在の103万円の基準が1995年のインフレ調整以来変わっていない「ゾンビ税制」だとし、この間の最低賃金上昇率が約73%であることを引き上げ幅の根拠とする。これに対し、大和総研の是枝俊悟主任研究員は「最低賃金イコール最低限の生活費ではない。この間の物価上昇率である10%程度の引き上げが妥当だ」と説明する。
政府の試算では、103万円から178万円まで引き上げた場合、国と地方の合計で年約7兆6000億円の税収減になる。控除額の引き上げは納税者にとっては減税となり、高所得者ほど効果が大きくなる。
「玉木氏の説明にブレも見られる」
是枝氏は「財源を埋めるため仮に消費税増税をすれば、所得の低い人に厳しい税制となる可能性がある」とし、こう強調する。「引き上げ方次第で今後の所得税の在り方が大きく変わることになる。どのような税体系を構築するか全体像を示した上での議論が必要だ」
野村総合研究所の木内登英氏も「年収の壁をなくし手取りを増やすというのは働き控えを減らすことや低所得者層の支援が目的のはずだ。一律で178万円まで控除額を引き上げると、税収にかなり大きな穴があくのと格差対策の観点から課題が残る」と話す。
年収178万円以下の低所得層だけを対象に控除額を引き上げれば税収減は1030億円にとどまり、200億円程度の景気浮揚効果があると試算。「選挙では具体的な目的や財源については詳しく触れてこなかったが、注目を集めるようになってから玉木氏の説明にブレも見られる。与党との協議の中で着地点を見いだしていくのだろう」とみる。
「いいように与党に使われるだけでは」
財源の問題があり、今後の与党とのやりとりで最終的に限定的な引き上げになる可能性もある。経済ジャーナリストの荻原博子さんは「選挙で有権者はぎりぎりの生活が楽になることを期待した。コロナや物価高で国民が苦しむ中、国の税収は増え続けている。財源を理由に妥協することはあり得ない」とけん制する。
国民民主は昨年秋の臨時国会で、ガソリン税を一時的に引き下げる「トリガー条項」凍結解除を巡って予算案に賛成した上で自民・公明と協議したが、最終的に協議から離脱し、実現しなかった。「今回も取りまとめで大騒ぎした結果、参院選を迎えてある程度の額でお茶を濁され、いいように与党に使われるだけではないか」と懸念する。「庶民の生活を政争の具にせず、結果を残してほしい」
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デスクメモ
所得税が課される年収の境目は、かつては物価上昇に応じて調整されていた。それが約30年間据え置かれたのは、日本経済の長いデフレの表れでもある。ただ、最近の物価高は明らか。「壁」の在り方は論じられるべきだが、大風呂敷を広げた政治的アピールで終わらないでほしい。(北)