山上容疑者の銃弾で変わった日本は「とっくにテロに屈している」という現実(DIAMOND online 2022.9.15 4:10)より一部抜粋
ノンフィクションライター 窪田順生
山上容疑者の「一人勝ち」は「日本はテロに屈した」ということ
「まさか、ここまでうまくいくとは思わなかったな」と、拘置所の山上徹也容疑者はそんな風にほくそ笑んでいるかもしれない。
自分が事件を起こすまでは誰も見向きもしなかった旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の悪質性に国民の関心が集まり、激しく糾弾されるようになっているからだ。
安倍元首相殺害の動機については未だに明らかになっていないが、山上容疑者が自身の家庭を崩壊させた旧統一教会に深い恨みを抱いていたことは間違いない。その怨恨が事件にも影響を与えたと言われている。
つまり、旧統一教会を徹底糾弾する今の日本社会は、山上容疑者が夢にまで見た理想の世界なのだ。拘置所で新聞や週刊誌を読んだ彼は、自分が成し遂げた「完全勝利」に酔いしれているに違いない。
「あんな卑劣な犯行をして極刑だと言われているのに、勝ったも負けたもないだろ」と思うかもしれないが、安倍元首相の殺害から旧統一教会問題まで冷静に振り返ると、どう見ても山上容疑者の「一人勝ち」だ。
真相が明らかになればなるほど、教団だけではなく、日本政府、警察、政治家、マスコミなどが国民の信用を失っているのに対して、山上容疑者だけは評価が上がっているからだ。
同情論はもちろん、英雄視するような声まで出てきて、減刑の嘆願やカンパも日増しに増えている。また、手記の出版や、彼を主人公とした映画などの「メディア化」の動きも盛り上がっている。死屍累々の旧統一教会問題で、山上容疑者だけが「得」をしている。
これは、日本的にはこれはかなりマズい。「山上容疑者の一人勝ち」という現象は、「日本はテロに屈している」という事実を我々国民が受け入れてしまっていることでもあるからだ。
政治家は叩かれ、容疑者は同情されるという構図
現時点で犯行は思想信条によるものではないとされるが、旧統一教会に対する憎悪を社会に喚起するために関係の深い安倍元首相を殺したというなら「テロ」と言えなくもない。事件が引き起こした恐怖と衝撃で世論がガラリと変わって、自民党や政府も何十年も続けてきた教団との関係を見直さざるをえなくなった。誤解を恐れずに言ってしまうと、山上容疑者は「この国の不条理を変えるには、実は暴力が最も効果がある」と身をもって証明したのだ。
そんな「テロリスト」がこの国では「一人勝ち」となっている。冷静に考えると、民主主義国家としてこれはかなりヤバい事態ではないか。
テロの標的にされた政治家たちはボロカスに叩かれているのに、テロを起こした張本人は、家庭環境が不幸ということで「気の毒に」と同情され、多くのマスコミも「そこまで追いつめられるのもわからんでもない」と心情に理解が示されている。そんな社会はもはや「テロに屈している」と言ってもいい。
「山上容疑者が許されるならオレだって」というテロ予備軍をつくっている
そんな「日本社会の不条理」を山上容疑者は「暴力」によってガラリと変えた。安倍元首相を殺害することで、旧統一教会の問題はテレビや新聞が追いかけて、政府や自民党が謝罪に追われる最重要課題となったのである。
暴力によって世界は変えられることを、山上容疑者は証明してしまったのだ。
山上容疑者のように不幸な境遇で、社会の不条理に対してマグマのように怒りを抱えている人々にとって、こんな痛快な話はないだろう。「だったらオレも山上容疑者のように」と思い立つ人間がいてもおかしくはない。そして、これはマスコミの責任だと筆者は考えている。
海外では自爆テロ犯や、銃乱射事件の犯人などの心情などの内面をメディアは無責任に報道をしない。犯人の人間性に魅力を感じたり、共感をしてしまったりして、模倣犯を生んでしまうからだ。
しかし、日本のマスコミにそういう配慮はない。山上容疑者の心情に寄り添い、彼がどれだけ苦しみ、悩んだかを積極的に報じている。報道する側は「旧統一教会を糾弾するために必要な情報だ」と思っているのだろうが、実はそれは山上容疑者のような不幸な家庭環境や生い立ちの人々に「成功事例」を紹介して、「山上容疑者が許されるならオレだって」というテロ予備軍をつくっている恐れがあるのだ。
これから日本には第二、第三の山上容疑者が増えていくのではないか。