小声で一度きり、めぐみさんが明かした拉致現場 曽我ひとみさん語る
小声で一度きり、めぐみさんが明かした拉致現場 曽我ひとみさん語る(毎日新聞 2024/11/24 08:00 最終更新 11/24 19:01)
曽我ひとみさん(65)は拉致された直後に約8カ月間、北朝鮮で横田めぐみさんと一緒に生活した。毎日新聞の取材に対し、めぐみさんから「自宅近くの曲がり角で襲われた」と聞いたことなどを回顧。2002年の帰国前に初めて会っためぐみさんの娘が、曽我さんの朝鮮名(ヘギョン)と同じ名前だと紹介された時は驚き、「めぐみさんは『私のことを絶対忘れていない』と強く思った。亡くなったとは今もずっと信じていない」と力を込めた。
めぐみさんは拉致された時、新潟市立寄居中1年の13歳。1977年11月15日午後6時半過ぎ、同校でバドミントン部の練習を終えて下校中に北朝鮮の工作員に拉致された。
曽我さんは北朝鮮で外国人を宿泊させる「招待所」に連れられ、「私が拉致されてから10日か1週間ぐらいで、めぐみさんと初めて会い、一緒に暮らすことになった」と説明。その頃はまだ夏で、曽我さんは拉致された時と同じワンピースを着ていた。めぐみさんは曽我さんの膝にある傷を見て、「どうしたの」と声を掛けてくれたという。
曽我さんは拉致された時の状況を短く説明し、「一緒に襲われた母親がどこにいるか分からないんだ」と言うと、めぐみさんは「私は部活の帰りに自宅近くのちょうど曲がり角のところまで行って襲われ、ここに連れて来られたの」と明かしたという。
近くの部屋には日本語が多少分かる監視役の「指導員」がいたため、曽我さんは「本当にギリギリ聞こえるぐらいの声で話した」。ただ拉致された時の話はこの一度きりで、「まだ2人とも幼く、お互い思い出したくなかった」と振り返る。
招待所では北朝鮮工作員だった辛光洙(シングァンス)容疑者がめぐみさんに「義務教育は習わないとな」と言い、数学や理科を教えているところを曽我さんは見ていたという。また辛容疑者は曽我さんに「(めぐみさんを)拉致したのは自分だ」とぼそっと漏らしたといい、曽我さんは「なぜ私にこっそりと言ったのか、詳しくは分からないが、そう聞いた」と話す。
曽我さんは英語を学ぶため、めぐみさんと別れて暮らすことになった。めぐみさんからスポーツバッグのような赤いバッグを渡され、寂しそうな表情を浮かべて、「私だと思って持っていって」と言われたという。曽我さんは帰国する時、当初は戻る予定だったため、「バッグは北朝鮮に置いたまま」と残念がる。
その後は、外貨ショップでめぐみさんと偶然会って目が合ったが、指導員がそばにいて会話ができず、それ以降、姿を目撃することはなかったという。
曽我さんは拉致被害者がさらわれた理由について「それぞれ違うと思う」とした上で、「私の場合は最終的に北朝鮮にいる工作員や、私の夫(17年に77歳で死去したジェンキンスさん)みたいな人たちの結婚相手にすることだったのかもしれない」と推測している。
日本政府の発表によると、北朝鮮側は曽我さんを拉致した理由について「特殊機関工作員が身分隠し、語学教育の目的で現地請負業者(日本人)に依頼し、引き渡しを受けて連れてきた」と説明しているが、真相はいまだ判然としていない。
曽我さんは02年10月15日に帰国する際、平壌の空港で「キム・ヘギョン」と紹介されためぐみさんの娘と初対面した。曽我さんは名前を聞いた時、「『えっ、私と同じ名前?まさか……』と本当にびっくりした」と語る。
めぐみさんの娘に「お母さん(めぐみさん)は?」と聞いたら、「亡くなった」と聞かされたが、「その時も私は信じなかった」。
一方で頭の中では「めぐみさんは私のことが忘れられなくて、娘にもヘギョンという名前を付けたのかなと勝手に思っていた」といい、「本当にうれしく、『ありがたいな』と思いながら、ヘギョンちゃんを強く抱きしめていた」と明かす。
曽我さんの朝鮮名は「ミン・ヘギョン」。めぐみさんと一緒になった直後ぐらいに、北朝鮮の担当者から「明日からあなたの名前はこれよ」と言われたが、「名前の由来は全然聞けなかった」。
北朝鮮から説明を受けた日本政府の発表によると、めぐみさんの朝鮮名は「リュ・ミョンスク」だが、曽我さんは「一緒に暮らしていた時、『リュ』は合っている感じはするが、『ミョンスク』ではなかった気がする。名前はコロコロ変わることもあるので、当時と名前が違うのかな」と首をかしげた。
またヘギョンちゃんについても「あとでいろいろと聞いたところでは、幼い時の名前がヘギョンで、『ウンギョンちゃん』と名前が変わっているのを聞き驚いている」とも語った。最後に全ての拉致被害者の救出に向けて日本政府に対して「日朝首脳会談を早く実現してほしい」と求めた。
「母が準備してくれた着物で一緒に写真を」 曽我ひとみさんの願い
「母が準備してくれた着物で一緒に写真を」 曽我ひとみさんの願い(毎日新聞 2024/11/23 08:45 最終更新 11/24 19:07)
北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん(65)が、新潟県佐渡市で毎日新聞の単独取材に応じた。曽我さんは2002年に帰国してから10月で22年が経過。拉致問題は全く進展せず、今春から報道機関の単独取材も受けるようになり、焦る気持ちを訴え続けている。一緒に拉致された母ミヨシさん(行方不明時46歳)はいまだ安否が分からず、12月28日で93歳となる。「働き者であまり怒らずいつも明るい母」だったというミヨシさんへの思いを語った。
働き者だった母の思い出の味
曽我さん親娘(おやこ)は旧真野町(現佐渡市)で1978年8月12日午後7時過ぎ、自宅近くの商店から帰る途中、北朝鮮の工作員に拉致された。曽我さんは当時19歳で、それ以降、母の姿を見ていない。
曽我さんが真野小の高学年だったころ。同級生が服を自慢していたのをうらやましく思い、自宅のタンスにあった金を持ち出して服屋でセーターをこっそり買ったことがあったという。その日の夜、帰宅した母に気づかれ、怒られるのを覚悟した。だがミヨシさんは家庭が貧しいことを気にしてか、「母ちゃんが買(こ)うてやれんもんし、ひとみが1人で買うてきたんだな」と言い、最後にこうつぶやいたという。「堪忍な、堪忍な……」
曽我さんは予期せぬ母の態度に感極まり、働き者だった母の背中をいつも見ていただけに、「その言葉が普通に怒られるよりすごく心に刺さり、とても反省した」と振り返る。
「母は朝から晩までずっと働いていた。父がバイク事故で働けなくなってしまったので、その代わりに2人分働いていた」と曽我さん。ミヨシさんは夫と二人の娘のため、昼間は北越ヒューム管の工場で働き、帰宅後は夕食を作って家族に食べさせた。その後も、ざるを作る内職を午前0時ぐらいまでして就寝。午前4時半か5時ごろには起床する生活だったという。
そんな多忙を極める母が自宅の畑で、丹精込めて作ったというサツマイモが曽我さんにとっては”思い出の母の味“。「甘くておいしい。母も私も大好き。北朝鮮ではあまり食べた思い出がないが、帰国して自宅の畑に行くと、知り合いに時々分けていた母を思い出す」とほおを緩める。
「母の手紙か答え出せない」
北朝鮮はミヨシさんについて「承知しておらず、引き渡しを受けたのはひとみさんだけ」と日本政府に回答しているが、一緒に帰国した拉致被害者の地村富貴恵さんから、ミヨシさんが北朝鮮で書いた可能性がある手紙を見たと聞いたことがある。外国人を宿泊させる「招待所」と呼ばれる場所で、三面鏡の引き出しの中から見つかったという。
手紙には「久我ヨシ子(または良子)」「50代」「70年代に革命のため佐渡から朝鮮に来た」「○○工場で勤めていた」「主人は交通事故で亡くなった」「26歳の娘がいて結婚している」などと書かれていたとされる。
曽我さんは「この話が昔、ニュースになる前に地村さんから一度聞いた」とした上で、「佐渡とか、言葉一つ一つには『そうかな』と思わせるようなところがいくつかあるが、『ここは違う』というところもある」と強調。「私が実際に見たわけではないので、母が書いたものかどうか、はっきりとした答えを出せない」と話した。
曽我さんは看護学院で学んでいた時に「母が借金をしてまで買ってくれた」という腕時計を今も大事に付けている。拉致された時も身に付け、北朝鮮で母がそばにいなくても、時を刻み続ける腕時計を見て母も生きていることを信じてきた。
着物を見つけ「涙が止まらなかった」
帰国後、自宅のタンスの中に仕付け糸がまだ付いたままの着物が大切に保管されているのを見つけた時は「涙が止まらなかった」という。ミヨシさんが曽我さんの20歳の成人式に向け「こっそりと準備してくれていたと思った」と話し、「母が帰ってきたら、ちょっと年には似合わないけれど、この着物を着て母と一緒に写真を撮りたい」と望む。
ただ帰国から22年経過しても再会できず、焦りは募るばかり。「あまりにも長い時間が過ぎてしまい、私もそれなりに年齢を重ねたが、母はそれ以上に年を取っている」と吐露。「日本での93歳は畑に出て、それなりの仕事をしている方も見かけるが、北朝鮮での93歳は日本とは全然違うと思う」と心配する。
「母ちゃん、いまどうしていますか。これから寒い冬がやってきます。体に気をつけて元気でいて、絶対に佐渡に帰ってくることを諦めずにいてね」。柿色と若草色に染まった成人式用の晴れ着を見つめながら、曽我さんは愛する母に向けてメッセージを語った。